『獣王山前夜(3)』 







 サレの居る特別収容所の独房は、扉が特殊な金属製の二重構造となっており、それはガジュマ兵士が二人がかりでやっと動かすことができるくらいに重く頑丈なものだった。
 これは、フォルス能力というものが、元々ガジュマにしか発現しないものであるということに由来している。
 今でこそ、『ラドラスの落日』という人為的になされた膨大なフォルスの放出により、ヒューマ中にも能力を有するものが存在するようにはなったが、それはほんの一年前のことである。
 生来的に言えば、ガジュマは肉体的、身体的な能力においてヒューマより格段に優れている種族であり、特にフォルス能力を備えた者の中には、その生来的な力に加えた相乗効果によって破壊的な筋力を持つ者も存在する。
 そういうガジュマ能力者にも対応できるように、この収容所は特に強固に造られているのだ。
 けれど今、その身体的な能力においてはガジュマにはるかに及ばず、収容所のシステムによって、そのフォルスすら封じられたサレにとって、この厚く重い扉は、外の世界から遮断し、僅かな望みをも閉ざす絶望そのものだった。






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「ああ、誰か来たんだね。」
 重く軋んだ音とともに金属製の扉が開かれると、薄暗い独房の中から聞き慣れた声がした。
 収容所は、バルカ中で『ヒューマ弾圧』が始まってから、意図的な改修工事が加えられ、壁という壁が塗りつぶされ、窓が一つも無くなった状態になっていた。
 昼間でも陽の光が全く射さない、暗く狭い部屋の中は、ぞっとするほど空気が重く淀んでいる。
 これは囚人に生きながら押し付けられた「墓」そのものだった。
 冷え冷えとした部屋の隅にポツンと置かれた粗末なスチール製の椅子から立ち上がって、サレはトーマを迎えた。
「やあ。」
 一見して明らかにやつれているのが解った。
 元々細身の男ではあったが、ほんの数日間、ここに来なかっただけだというのに、がたりと痩せたようだった。
 顎が尖ったような印象が際立ち、差し出された腕は、手首の部分が骨ばって見えた。
 これが、少し前まであれほどの強靭な剣をふるった者の腕なのかと思わずにはいられない。

 ここは地獄だ。そしてそれは、ここの外とて同じこと。
 ヒューマである以上、サレの居場所など、もうどこにもありはしない。
 ならば、ジルバの命令通りに。今、自分がせめて苦しまないようにしてやることこそ、サレのためなのではないだろうか。
 あの細い首を掴んで、そのまま少し力を入れる。
 本当にたったそれだけのことで全てが終わるのだ。
 この一月の間、重く抑圧し続け、その強迫観念に苛まれたあの忌々しい命令から解放されるのだ。
 殺す。それだけ言えば、いかにも簡単そうだ。
 殺すという行為は、これまで自分が日常的にこなしてきた任務においてそうだったように、何も考えさえしなければ決して難しいことではない。
 気道を遮断して呼吸を止める。
 本当にそれだけのことだ。

「ありがとう、来てくれてうれしいよ。」
 無理に作った笑みを浮かべたその薄い唇は、この独房の状態の悪さに晒されて、ひどく荒れていた。
 男のくせに随分綺麗なものだと思っていた髪は乱れていて、元々白かった肌は、もう長いこと日の光をあびていないせいか、およそ生気を感じられないほどに青ざめて見えた。
 唇の端が切れて血がこびりついていた。
 眉の横にも、あきらかに殴られたものだと分かるあざがあり、やぶれた皮膚から滲んだ血は、まだ完全に乾いてもいなかった。
 一見しただけでサレの身体に刻まれた傷は、先程看守が、さも得意げに言っていた『尋問』という名の虐待を日常的に受けていることを証明していた。
 声をかけるタイミングを外してしまい、こちらが気まずく黙り込んでいると、サレがいぶかしむように少し、立ち位置を変えた。
 その一歩を踏み出したときの動作すらぎこちなく、身体がぐらりと傾いだ。
 体力がひどく落ちてしまっているのだ。
 咄嗟に支えようと腕を差し出したが、サレはそれをやんわりと押しのけて自分で身体を支え、そのまま真正面に立って見上げてきた。
 支えたときの、その身体のあまりの軽さは、死そのものを連想させた。
 これで生き長らえているのが不思議なくらいだった。
「…今日は誰が来てくれたのかな?。」
 その言葉を聞いて、瞬時にしてトーマは総毛立つような思いをした。
 お前、俺が分からないのか。
「おいっ、お前!。」
 驚愕に思わずサレの細い肩を掴み上げていた。
「な、何?、誰?。」
 拘束を嫌がる猫のように身を捩じらせてサレは言う。
 およそサレらしくもない、怯えようだった。
 だが、無理に顔を上げさせ、至近距離で視線をあわせたとき、トーマは即座に先程のそれを否定した。
「…。」
 目の前に居るのは確かにサレだった。
 この狂気は偽物だ。
 その瞳の奥には、以前、自分の隣にあって、味方の兵をも恐怖させ、その力を振るった『四星のサレ』のままの光が宿っていた。
 弱りきった外見に加えて精神の異常を装って、ここの看守を欺いているのだ。
 生き延びるために。ただただ、ここから生還するために、命を繋ぐわずかな望みを捨てずに狂気を装い、従順を装い、内部に研ぎ澄ませた刃の切っ先を隠しているのだ。
 今、向かい合ったその瞳は少しもこの、突如として強いられた理不尽な仕打ちに対して屈していないことを、少しもあきらめていないことを雄弁に物語っていた。
 それはまさしく、自分と幾多の死線を共にした『サレ』のものだった。
 何も変わっていない。
 サレだけが何も変わらない。
 ジルバの立ち上げたガジュマ至上主義の蔓延によるヒューマ弾圧が、このバルカの街を変え、やがてはこの国の全てを変えてしまうこととなっても。
 サレだけは他のあらゆるものと。違っているのだ。
 トーマは今、ジルバの『密命』を、あのとき自分を見据えた蔑みの眼を、心底憎んだ。
 これまで誤魔化し宥めすかしながら抑え込んでいた『反逆』の焔が再び燃え上がるのを感じていた。
 サレが正気ならば、狂気と従順を装いながら、ここから生還することを諦めていないのなら。
 今、自分の存在こそは、サレにとってのおそらく唯一最後の希望なのかもしれない。

「食事だ。」
 トーマは、内心の昂ぶりを必死に押し隠して短く言った。
 独房の扉のすぐ傍には、二人ほどガジュマ兵が立っている。
 兵士の視線を鬱陶しく背後に感じながら、備え付けの簡素な小さいテーブルの上に、運ぶ間にすっかり冷めてしまった囚人用のプレートを置いた。
 サレは、それにちらりと視線を走らせたが、興味を示そうとせず、すぐにこちらに向き直り、見上げてきた。
「…ねええ。今日は僕をここから出してもらえるの?。」
 その端正な顔に、甘ったれた表情を作り、わずかに鼻にかかったような声でサレは言った。
 この狂気の表情が偽りならば、サレの言葉は全て本物だ。
「…僕、ここから早く出たいなあ。…出してよ。僕を出してよ。もうずっと長いこと僕はここから出ていない。ねえ、いいだろう、外に出たいんだ。本当にそれだけなんだ。外の空気を吸いたいだけなんだ。」
 男にしては少々高めの、甘ったれた声音。
 独房での過酷な環境と日々の暴力とから身を守るために纏った狂気の鎧。
 だが、サレの口から伝えられる言葉の意味は、「殺してくれ、楽にしてくれ」ではなく「ここから出たい。」という要求だった。
 トーマが黙り込みサレの次の言葉を待っていると、サレは、少しだけ視線を横に逸らしてそのまま眼を伏せ、唇の端に薄く笑みを作ってみせた。
 そしてそれは目の前で、次第に嫣然とした表情に変貌していくのをトーマは見た。
 一呼吸置いて、その長く揃った睫をもった双眸をしばたかせて見上げる。
 初めて見る誘いの表情だった。
 少し伏目がちのサレの双眸は、今、凄まじいくらいに印象的だった。
 それは間近で見る者にとって、どんな感覚を呼び起こすのか。
 こんな顔を見せるのか。
 こんなふうに命を繋ぐのか。
 誘引の瞳。これはサレの張った巧妙で、懸命の防御壁だった。
 サレは、この過酷な環境にあってすら、生還の希望を捨てていない。
 ここから出て再び自由になることに対する執念の刃は研ぎ澄み、その奥に宿る生命の力はむしろ、自分の隣にあったとき以上のものだった。
 ふいにサレの両腕がゆっくりとこちらに向かって差し出される。
 蔓のようにしなる弧を描いて、それはトーマの首に回された。
「ここから出たって、僕は何も悪いことはしない。約束するよ。おとなしくしてるから。ここには何も無いから僕は退屈で仕方ないだけなんだ。ねえ、…出してくれるのなら、僕は、…何だってするよ?。」
『こんなところで死にたくない。』
 サレの声が聞こえたようだった。

 ここを出たとて、能力者のサレは、どこに逃げても追手が差し向けられ、到底、安息などありえない。
 そんなこと、解っているはずだった。
 だがそうだとしても。
 今まで、幾多の生命の危険を、その能力ひとつでのりこえてきたように。今回も。
 ここから出て生き延びたいと。
 そういう、純化された生への執念のみをもってサレは望みを繋いでいる。
 おそらく相当な忍耐力をもって、この独房での苦痛に耐えてきたのだ。
 捕らえられたヒューマが、発狂し、自ら命を絶ち、独房に生きて残っているのがサレだけだという事実が、ここの独房がどれほど過酷かを証明している。
 サレとて間違いなく限界に近いはずだ。
 どれほど我慢強くとも、どれほど生き抜くことのみを考えて、日々耐え抜いたとしても、これほどの過酷な環境に閉じ込めておいたら、サレの身体が耐えられなくなるのはもう時間の問題だ。

『サレを殺せ。』
 ジルバの命令。
 鼓膜にこびりついた抑揚の無い声、脳裏に灼きついた蔑みの眼。
 気に入らない口調など、いかにも馬鹿にした顔など。
 いつもならば、適当に、例えば酒に逃げるとかしてはけ口を探せばいいはずだった。
 どんなに卑劣で吐き気のするような任務を受けた際の不快さも、そうしてやり過ごしてきたはずなのだ。
 だがあのとき、命令の理不尽さに頭に血が昇ったのは一瞬だけだったのだ。
 その直後か、あるいは同時か。
 これまで信じていた過去も、今も、そしてこれからの未来も全て。あの時を境に凍った。

『お前、サレを殺してこい。』
 真実と信じてきた、あるいは錯覚していたものは、一言で凍りつき、次の言葉で叩きつけられ粉々に砕けた。
 そして後に残されたやけに白々とした感情の大地に、ひそやかに、それでいて、しっかりと『反逆』という名の植物は根を張ったのだ。
 自らを欺くように命令に従ったとて、何が残る。
 この一月、何を見た。
 何を考えた。
 狂っているのはジルバであり、ジルバが創り上げた国そのものだ。
 この腐りきった現実に直面してもまだ、ささいなことで簡単に剥奪される「地位」や、「長年仕えた従順な側近」の能書きが惜しいのか。
 そんなはずはない。
 そんなものはいらない。
 そう思い至った瞬間、トーマの中に、ある策略の種がぽとりと落ちた。
 今日、ここからサレを出す。
 死にたくないと、外で生きたいと、狂気を装い耐え抜いたサレの望みを叶える。
 それは、あまりにも急峻な。
 一月の澱みを吹き飛ばす決意だった。
 だが、まだ惑いが完全に消えたわけではない。
 サレをここから出すということは、単にジルバの命令を無視することに留まらず、『王の盾』という組織への、ひいては現在の国への裏切り行為へと繋がっていく。
 変貌してしまったとは言え、これまで自分の人生の全てを委ねてきた組織を、国を捨てるのだ。
 解っているのか。
 自分が何をしようとしているのか。

 ふいに背後に立っていたガジュマ兵のうちの一人が独房の中に入ってきた。
 ちらりとトーマの方を見たその眼は、妙に野卑な、そこで見ていろと言わんばかりの光り方をしていた。
「さあお前、ここに来て何を覚えたんだ?。それを今、トーマ様に申し上げるのだ。」
 そう言って、ガジュマ兵は、いきなりサレの前髪を掴み上げた。
 髪を引かれ無理に顔を上げられ、サレの眉根が一瞬、痛みに寄せられたのを見た瞬間、トーマはその兵士をいますぐ突き飛ばしたい衝動にかられたが、それを懸命に抑えた。
「よく解っているよ。」
 先程の、甘ったるい声音のままサレは返事をする。
 サレが耐えているのなら、こちらも我慢しなければならなかった。
「そうか、ならば言ってみろ。」
「うん、言うよ。いい?。『ヒューマとは醜い種族である。ヒューマは少しも力がないくせに、いつもガジュマから搾取することだけを考える、生まれつき狡猾な種族である。よってヒューマは劣悪種族である。』だろ?」
「それから?」
「…『ヒューマが生き延びる唯一の道は、生涯におけるガジュマへの完全な隷属。』…だよね?。僕はここに来てから、毎日そう聞かされてきたし、毎日、何百 回もそう言わされ続けてきた。だからヒューマの僕は、優れた種族のガジュマの言うことなら、何だって従うし、どんなことだってやる。」
 サレがそう言うと、看守は満足げにサレの襟元を掴み上げた。
 ボタンがいくつか取れてしまっているため、襟元をひっぱられたときに、サレの細い首筋の白い肌が露になった。
 そこにある鬱血したような傷がサレがここでどういう類の暴行を受けたかを物語っている。

 あまりの怒りに頭に血が昇り、握り締めた拳はもう、小刻みに震えてきた。
 目の前でひどい侮辱を受け続けるサレを見ているのは、もう限界だった。

 采は今、投げられた。
 惑いの霧は消え失せた。
 
 だが、暴行に傷つき目の前で侮辱を受けるサレの姿を見たから、咄嗟に感情が爆発したのではない。
 反発や失望はジルバに対するものだけではない。
 この国の正体とも言うべき、バルカ中に蔓延した身勝手な他者への攻撃感情全てに失望したのだ。
 決意が決まってしまえば、今、脳は恐ろしく冷静に機能を始めた。
 これは一時の衝動でないことの何よりの証明だった。
 組織を裏切る。
 俺は国を捨てる。
 それは、本心に根ざした決意だった。
 この一月間、『命令』による抑圧の枷は、限界まで精神を追い詰めたが、それは同時に、奥底で押さえに抑えていた反逆の意志を一層、強固なものにしていたのだ。
 
「…と言うことでぇ。我々の囚人管理が完璧だということがよくお分かりになったでしょう。これがあの元『四星』の現在の有様ってわけです。上出来でしょ う?。まあ、そういうわけですのでトーマ様、そろそろ時間です。囚人の面会時間については我々も厳守するように言われているんで。」
 独房の扉のところに立っていたもう一人のガジュマ兵が背後から口を挟んだ。 
 間延びした口調の、随分若い兵だった。
「ご覧になってお分かりかと思いますが、あのヒューマはもう駄目です。完全に。精神に異常をきたしております。もう我々の顔すら見分けがつかなくなってい るらしく、誰があの独房に入っても、あんな調子で。まあ、ガジュマへの隷属意識については完璧に根付いたようですがね。少々、効き目がありすぎたと言いま すか、誰彼かまわず誘うことまで覚えたようでして。ヒューマとは本当に下賤な生き物です。トーマ様も一度、お試しになってはいかがです?。次に来た折にで も。上から処刑の通達が無い限り、なるべく生かしてはおきますんで。」
 そう言って、二人で笑った。
 下卑た笑い方だった
 今、決意が動き出す。
 自分の鼓動の音が耳のすぐ傍で聞こえた。

「…なるほど、お前たちの言いたいことは解ったが、俺はまだ帰るわけにはいかない。今日は、あのヒューマの囚人を『尋問』しに来たのだからな。」
「ええ?、これからですか?」
「俺は、あのヒューマの囚人に関する全てをジルバ様に報告する任務を負ってここに来た。 お前たちから聞いたことだけをジルバ様に報告しろとでも言うの か?。確証の無い報告をあの方は一番嫌う。俺が俺のやり方で、あのヒューマが二度とガジュマへ立てつこうとしなくなるまで『尋問』する。内容は「王の盾」 の機密事項に関することも含まれ、部外者のお前たちには聞かせるわけにはいかない。だから尋問中、この独房にしばらく近づくな。他の兵もだ。ああ、それか ら勘違いしているようだから言っておくが、俺はこのヒューマの処分に関してジルバ様から全権を与えられている。お前たちが勝手に処分するようなことがあっ たら、それはジルバ様の御意志に逆らうことになることを覚えておけ。」
 トーマの言葉を聞き、ガジュマ兵は、いかにもしぶしぶといった感じに頷いた。
「…ジルバ様のご命令と言うことならば、解りました。…何かありましたらお呼び下さい。それから、このことは一応、上に報告させていただきますので。」
 ガジュマ兵が二人、独房から出て行き、足音が遠ざかる。
 それを確かめてからトーマは、サレの方を見た。
 視界の中で、サレの表情が変わっていく。
 それは、ここ一月の間で初めて見た、サレの本来の表情だった。








 





To be continued…






2005 1030  RUI TSUKADA



 ジルバの命令に逆らうことは、これまで自分の人生をかけてきた「王の盾」という組織そのものへの裏切りであり、ひいてはこのカレギアという国を捨てるという覚悟が必要になる。
 今まで「憎んで」きたヒューマという種族の「サレ」を助けるために、他種族である自分がそれを為し得るのだろうか。
 けれどジルバの命令に従い、王の盾メンバーという地位を守ることは、果たして自分の真実なのか。
 トーマにとって、サレを助けるという行為は「単なる同僚への善意」に帰着するにはあまりにもリスクが大きい。
  


 
 次回、『獣王山前夜(4)』
 トーマ×サレでやおい〜。