『獣王山前夜(2)』 






 城の建物から中庭に出ると、風景がふいに翳りを帯び始めた。
 高い造りの建物に切り取られたような空を見上げると、黒い色の雲が出始めており、それが厚く広がるに従って、空全体から夏の光がかき消されていった。
 遠くで地響きのような雷鳴が聞こえる。
 やがて雨が降り始め、夏特有の大粒の雨は、中庭の手入れの行き届いた石畳の路面を黒く濡らしていき、雨粒の当たる音は、やがて周囲から全ての音を奪い去っていった。
 すぐに激しい吹き降りになり、あたりは夕暮れ時のような暗さに包まれた。
 風も出てきて、中庭に植えられた落葉樹の枝が煽られ大きく撓んでいた。

  建物から中庭を隔てた演習場で訓練中だった若い兵たちが、突然の雨風に声を上げながら、走っていくのが見えた。
 全部で二十人程度の小隊のようだったが、その集団の中には、一人たりともヒューマ兵の姿は無い。
 先代王の時代から数十年間、人々が皆、種族共存を理想と信じて繁栄した都市バルカにあって、こんなふうに変わってしまうのに要した時間はほんの数ヶ月。
 実際、ヒトというものは、どうしようもなく恐怖に弱く、身勝手だった。
 なぜ、あそこに居る兵士たちは、全員、まるで『何事もなかったように』日常の訓練に埋没していられる?。
 あれほど恐ろしいことが、身近で起こったにも関わらず、誰も彼もが見て見ぬふりをしていられる?。
 力無き者は、自分の身に災厄の火の粉がかからないようにするのに必死なのだ。
 不運や悲劇や災難は、あくまでも遠くの出来事であってほしい。
 新政権によって中央からの情報が操作され、真実は隠蔽され、密告が横行する現実にあっては、隣人に怯え、疑心暗鬼になって口を閉ざす。
「…。」
 トーマは、自分の中に湧いた淀みを吐き出すように、忌々しげにひとつ舌打ちをした。
 今、この場において、あたかも自分だけが外界から切り離され、流れからはじき出されているようだと思った。
 だが、仮に今、ジルバの打ち立てたにわか作りの政権が、例えばヒューマ至上主義を掲げる反対派の誰かにでも倒されたら、目の前の光景は途端に逆転するのだろう。
 同じように、要職から順に全ての人事が一掃されて、粛清が横行して、街では略奪がまかり通って、ヒューマ支配とガジュマ隷属の関係が敷かれるのであろう。
 今はガジュマ支配がこの世の全てかのごとく錯覚されていても、他種族の犠牲の上に成り立つ政権など、所詮不安定なものだ。
 権力者の命や影響力が永遠不滅足りえない以上、鬱積した不満は、必ずどこかで紛糾する。
 それが明日なのか、それとも数十年後であるのかは分からないが、いずれにせよ抑圧が生み出した憎しみと争いの連鎖は、この先ずっと続いていく。
 それこそ、どちらかの種族が、もう一方の種族を完全に駆逐でもしない限り終わらない。

 そして自分は、当事者として、これからまさにこの事態に関わらねばならない。
 いや、客観的に見れば、もう引き返せないところに居るのかもしれなかった。






 ##

 トーマは、兵舎の方に走っていく若い兵達の群れを横で見ながら、サレの居る、北の収容所へと向かって行った。
 収容所は、『王の盾』の兵舎のある敷地内の、北の端に建てられており、街の喧騒すら届かないこの一角は、異様なほど静かだった。
 つくづく胸糞悪いところだと、収容所を訪れるたびにトーマはそう思う。
 この収容所は、元々建物自体に窓が少ない造りになっている。
 コンクリートで厚く塗りつぶされた壁面は、入り口から一歩入っただけで、密封されたような息苦しさを与えてくる。
 入り口から入ってすぐのやや広いスペースは、煌々と蛍光灯に照らされてはいたが、白く塗った壁や、スチール製の備品などは見事なほどに味気が無い。
 係りの者に簡単なチェックを受けてから、トーマは一つ、金属製の扉をくぐった。
 この扉から奥に向かって長く続く通路を渡り、さらにいくつもの扉をくぐった先に、目的の独房用の棟がある。
 収容所の入り口から、囚人を収監する独房までは、かなりの距離があった。
 随分歩いたというのに、まだいくつもの、金属製の厚く重い扉に区切られたブロックが続いていく。
 通路には、天井付近に数メートル間隔で小型の監視カメラが備え付けられている。
 奥に向かうにつれて、外の気配は遠ざかり、空調の機械音だけがやけに鮮明に響くようになってくる。
 その規則的な機械の音は、外部と空間的に繋がっているのは、その空調による空気の流れだけである、ということを知らしめているようで、それが、この胸糞悪さに一層拍車をかけ、収容された者の精神を圧迫し続けてきたのだ。

 『重犯罪者』用収容房は、通路をいった突き当たりの、広くて天井の高いスペースに設けられていた。
 そこの床だけが、他の場所とは異なる、少しくすんだ緑色の敷布が全面に貼り巡らされており、これは、ここから出られることは永遠に叶わないのだと。
 そういう意味が込められているのだと、最近になってトーマは知った。

 ジルバが行った『王の盾』内部の人事粛清により、この特別収容所送りになったものは、サレの他にも、何人もいた。
 最初のうちこそヒューマ能力者が優先的にその対象となっていたようだったが、そのうち、能力者のみならず、親王政派の活動家や、正規軍とコンタクトを取 ろうとした将官や、あるいは個人の理想を掲げて反ガジュマ勢力の徒党を組もうとしたリーダー格の者も、その種族関係なく捕らえられ、処罰されるようになっ ていた。
 カレギアをガジュマの国家として支配するための長期計画の一環であったという通りに、綿密な計画の下、随分前から予め国中に放たれていた密偵の情報力の前に、にわかな反抗は次々と無力化された。
 国中に張り巡らされた密告の網にかかれば、強制的に壊滅させられたり、あるいは自滅に追いやられた。
 実際、ジルバは、造反の気配というものに、病的なほど敏感だった。
 特に為政者の立場になってからは、常に周囲に疑いの目を向け、密偵の情報力によって摘発した者は、裁判も無いまま、見せしめの拷問や処刑が行われていた。
 この特別収容所に送られた、ということは、処刑の前の猶予期間にあるということである。
 多くの者は、処刑の日を待たずに精神に異常を来たし、あるいは自ら命を絶っている。
 『重犯罪者』たちは、日に日にその数を減らし、今、この独房にいるのはサレだけになっていた。

 トーマは、この収容所になるべく頻繁に訪れるようにしていた。
 ジルバに命じられた極秘の『任務』を重く抱え、その最終期限を暗に迫られている今となっては、実行の意志なくしてこの独房を訪れるのは、ジルバの手前、あまり好ましいことではないと、分かっていたが、そうせずにはいられなかった。
 せめて二、三日に一度でもサレの様子を識るためにここを訪れること。
 当初は自分の仕事に沿ってのことだと思っていたが、今となっては、あきらかに私情である。

 『極秘の任務』の最終期限。
 日々の職務が退けた後、ジルバの執務室に赴くのは憂鬱だった。
 報告を聞くジルバの眼の中に、「まだあの仕事を完遂する気はないのか、まさか妙な考えでも起こしたんじゃあるまいね。」
 そういう意図が、はっきり読み取れるようになった。
 こちらを見据える視線、それは、一瞬たりともこちらの隙を逃さぬように、こっちの内面を探り出そうと。
 狙っているのだ。
 疑われている。
 それは例えようもない恐怖だった。
 二心を抱くものを決して赦さないジルバに逆らうことは、死を意味する。
 そこにある汚濁をすすぐように、わずかなシミも逃さず消し去ろうとするかのように、ジルバは疑いのある者を、いとも簡単に。殺すのだ。
 粛清の対象になるのは恐ろしかった。
 『独裁者』に変貌したジルバを前にして、自分が長年仕えた側近なのだからという期待は無意味であり、愚かだった。
 けれどそれならば、自分がこの『王の盾』に仕えたこと。
 それは一体、何を生み出しえたのだろう。
 国家に掲げられた共存の理想の実現のため、己の能力を買われてその一部品にでもなれるのなら。
 30年近くをそう思い続けていたはずだった。
 日々の任務は、美しい文言で飾られた「理想」からは到底かけはなれたようなものであり、我ながら飼い慣らされた犬のようだと思わなくもなかったが、それでも自らを支え続けたのは、先代王の理想だった。
 それは全て、あの日を境に、跡形も無く砕け散った。
 だが、これほどの失望や喪失感も、脳のある一点においては、ひどく白々と、馬鹿げたことだと考えられる自分がいる。
 処分の対象になりかねないという、事実上の強迫観念を前にしても、あの命令を聞いてから今日までの一月、一方において、自らが育ててきた『反逆』の芽は、もう、抑えようもないほどに見事に育っていたのだ。
 畜生が。
 こんなことがいつまでも続くと思っているのか。
 誰が貴様の思い通りになど、なるものか。

 これを『自棄』と言うのだろうか。
 長年信じてきたものに裏切られた失望感、それを埋める術を自分は知らない。
 けれど同時に己の無力に対する落胆を抱えて時を過ごせば自然、人の感情は開き直りに近くなってくる。

 トーマは、ジルバに常に監視下に置かれていることを意識しながらも、別段、用も無いくせに、独房のサレを頻繁に訪ねていた。
 ここの看守には、名目上、任務ということにして、鍵を開けさせてはいたが、これが私情からくる行動であるということは、うすうす気づかれていた。
 もう、誰にどう思われようとかまわない。
 ジルバに会うたびに、命令のおそろしさ、カレギアを事実上支配するものへの恐怖は実効の決意を呼び起こすくせに、この独房に来れば決心は鈍り、反対に、「どうでもいい。何とでもなれ。」という気分になる。
 トーマは、収監所の囚人の食事を作る調理場に立ち寄ってから、サレの独房へと向かう。
 これだけが今、自分が、せめてサレに対してできる唯一のことだった。


「これはトーマ様。今日も、あのヒューマの囚人の見回りですか。」
 看守が「今日も」という単語をことさらに強調して言った。
 収容所というところは、性質上、看守には地位の低い兵士がつけられることになっている。
 この男も見たこともない、おそらく下っ端のガジュマ兵だった。
 随分と思い上がった物言いをするものだとトーマは、突然湧いた怒りを込めて看守の兵を苦く見おろした。
 ヒューマへの露骨な差別は、ジルバが『ヒューマ弾圧』を始めて以来、この首都バルカで公然と行われるようになったとは言え、ほんの数ヶ月前には、直接会うこともできない存在だった『四星』を、今は平然と囚人呼ばわりするのか、と。

 ある切っ掛けをもって一時に噴出した差別感情は、力の均衡のバランスが少し狂っただけで、世界を変えた。
 憎しみ。あまりにも露骨な攻撃感情。
 これがこの国の正体なのか。
 あれほど人々が歓喜をもって信じた理想は?、誇りに思っていた相互理解や平和は?。
 こうなる過程において、何らの感情も伴わなかったのだろうか。
 共存の理想は、こんなににも簡単に忘れ去られ、捨てられるものなのだろうか。
 理性で抑えるべき憎悪や嫌悪は、政権が変わった、というたったそれだけのことで、これほどまでに、他種族を蹂躙し尽くすほどの衝動を生み出しえるものなのだろうか。

『どうでもいいよ。くだらない。』
 任地に赴いたとき、しばしば遭遇した、種族間の小競り合い、互いのその手が素手でなく、武器が握られているがために一層、溝を深くし、事態を醜くしている救いようのない光景。
 そんな場面に遭遇するたびに、サレはいつもそう言っていた。
 いつも通りの、少し白けたような、それでいてどこか遠くを見るような眼をして、サレは笑った。
 サレが思想的に共存主義者だったというわけではない。
 そう言ったときのサレからは、ある程度の穏やかさや、こちらに対する親しみのようなものが感じられはしたが、こっちを積極的に説得するようなことはしなかった。
 考えてみれば、ヒューマでありながら、先天的なフォルス能力者だったサレこそ、相当の異端だったことだろう。
 自種族であるヒューマの中にすら、居場所も無くサレは生きてきたのだ。
 どこに居ても、常に周囲と『異なる者』としてたった独りでありながら、いや、だからこそ、種族の境界などではなく、生なる者全てから距離を置くようにサレは、「どうでもいい。」と言っていたのだ。
「…本当に、どうでもいい、くだらないことだな。」
 思わず呟いたそのとき、看守が右手にもった独房用の鍵の触れ合う金属音にトーマは我に返った。
「ジルバ様の命令だ。独房を開けろ、すぐにだ。」
 憮然とした表情のまま、ガジュマ兵士の看守に命令した。
「あのヒューマの囚人にお会いになるのですか。しかし、果たしてあの様子ではマトモに話ができますかどうか。」
 歯切れの悪い言い方をする看守をトーマは睨み返した。
「…何があった。」
「数日前になりますか。ここに収容されているヒューマに対し、取調べと尋問が行われたのですよ。」
「取調べ?、尋問だと?。今更何を聞き出す必要がある?。」
「いえ、何ってことはありません。ただ、ヒューマには、完全にガジュマに服従を強いることによって、生き延びる道を残してやることが、カレギア建国以来の 建て前ですから、それを言葉にしてヒューマの囚人たちに強制するのが、最近、ここのちょっとした流行みたいになっているのです。ただ少々、尋問のやり方に 熱が入りすぎた者が若干、おりまして。ただでさえ身体能力の低いヒューマの数が減ってしまったのですよ。」
「…。」
 看守の言葉に、トーマは一気に不快なボルテージが自分の中で上がるのを自覚した。
 公然と虐待とリンチが行われているのだ。
 この特別収容所は、必然的に、特に地位や権力があったものが収監されていた。
 地位の低いガジュマの兵達は、日頃の鬱積した感情のはけ口を求めるように囚人を扱っている。
 理由もなく罵詈雑言を浴びせかけ、執拗に誇りを傷つけ続ける。そして今回、新たな獲物を見つけたとばかりに優位に立てる腕力で押さえつけ暴力で痛めつけていたのだ。
 一体、誰に断って。
「我々とて、ヒューマの囚人を、殺すことが目的なわけではありません。処分の命令が下されるまでは、ちゃんと生かしておかなければならないこともよくわ かっています。尋問のやり方には、くれぐれも、行き過ぎないように注意はしておいたのですがね、何分、ここは中央の監視が行き届かないところがありまし て。それに実際、ヒューマの囚人の中には、相当強情な者もいるのは確かなのですよ。」
 自分たちの仕事に口を挟むな、そう言外に言われてトーマは思わず気色ばんだ。
 そのトーマの表情の変化に、急に看守は竦みあがった。
「も、もちろん…っ、その尋問にあたった看守は厳しく処罰されはしましたよ、ええ。一応ちゃんと。ですがね、我々の部隊はあの正規軍の連中みたいにお行儀 のよい連中ばかり抱えているわけじゃない、ってこともご存知でしょう。特にこういうところに配属されるのは、ちょっと教育が行き届かないのも仕方ないこと で。まあ、収容房の看守なんて、愉快な場所じゃありませんから。そういう連中を適当に手懐けるのも、結構な手間のかかる仕事だってわけなんですよ。なるべ く決められたとおりにやってますとも。」
 看守は言い訳がましくそう付け加えた。
 それはもう、自分たちはこれでもジルバの意向に沿っているのだ、と言った完全に開き直った顔だった。
 どうせ処刑も間もない囚人。そういう意図もあるのだろう。
 看守の表情や言葉に含まれた、あからさまに、権力者の威を借る態度にトーマはたまらず、「さっさと独房を開けろ!」と声を荒げていた。



 





To be continued…






2005 1017  RUI TSUKADA



 ジルバの新政権が樹立したことにより始まった理不尽なヒューマ弾圧。それに対する怒り、不満、そんなものを抱えながら、一方においては、ジルバに逆らう覚悟も決まらず、自分の身に危険が及ぶことを恐れ、時間ばかりが過ぎていく。
 己の小心に身動きとれなくなっている間にも、ただ処刑を待つばかりのサレは収容所の過酷な環境下でギリギリ命を繋いでいる状態だ〜。
 ヒューマ弾圧。これをガジュマの自分には、関係の無いことだと、スルーしてしまえれば、これほどラクなことは無いのかもしれない。
 


 
 次回、『獣王山前夜(3)』
 トーマはサレの居る独房へと入っていく。