『獣王山前夜(1)』 







 聖獣王を呼び起こした儀式の日を境に女王アガーテは失踪し、その事件を端に発して、カレギア王宮は混乱状態に陥っていた。
 予め仕組まれて執り行われた儀式は、仕組んだ者の思惑通りに失敗し、女王の失踪は、表向き病で伏せっているとして世間から隠蔽されたが、その後、確実に世界は変化していた。
 拡散した聖獣王の思念は各地で種族間の対立となって具現化し、治安すらまともに機能しなくなった街では、人々の不安は他種族への憎しみに容易に置き換わっていった。
 ことに儀式の行われた首都バルカにおいては思念の影響が色濃く、それを利用してジルバはいち早くガジュマたちの反ヒューマ感情を煽り、一勢力として巧みに取りまとめ、内乱へと煽動した。
 これこそがジルバの当初のシナリオだった。そして国政や軍規への変革がそれに続き、最終目的であるカレギア全体の支配へと繋がっていた。
 王家と縁戚関係であるという出自と、幼い女王に侍女として長年仕えたという功績、王宮の内情と組織を知り尽くし、さらには、正規軍と対を成す能力者集団の『王の盾』の事実上トップという地位を利用し、ジルバは女王の失踪と同時に迅速にカレギア国の内政を掌握した。
 先ず要職の人事を押さえるや、反対派の追放、城の内規や軍規にいたるまで、全てガジュマ優位に書き換え、厳しい粛清がそれに続いた。
 自らの周囲を反ヒューマの重臣と護衛の兵とで固め、恐怖による統括と、狡猾な保身とを巧みに図りながら、国の変革は劇的に確実に実行されていった。
 国中至る所にジルバの密偵が放たれ、重臣であろうと将官であろうと、要職のヒューマは地位を追われ、貴族や領主や富裕な商家はその財を没収された。
 警察は機能を失い、ヒューマに対する略奪行為も放置されるままになっているような状態だった。
 絶対服従と理不尽な忠誠を誓うことを条件に、身の安全の保障を手に入れ、残ったヒューマ達も居るには居たが、強制的に地位も財産も剥奪されたヒューマへの扱いは不当さを極め、常軌を逸するようになっていった。

 バルカ中に拡がったヒューマ弾圧の波は、国王直下の組織、『王の盾』も例外ではなかった。
 『四星』という最高幹部にありながら、サレは、ヒューマであるという理由のみをもって、『王の盾』から除名になった。
 ラドラスの落日後には少なからず居た王の盾のヒューマ能力者たちは、既にガジュマ専用の機関となった『王の盾』の監視下で、管理されるという扱いになったが、特に強い能力と権限とをもっていたサレには、特別収容所送りという処分が下された。
 そこは、これまで多くのヒューマ兵たちが送り込まれ、収監された場所とは異なり、特に重大な背信行為を犯した者や、組織に対する造反の疑いのある者を収容するための、特別の施設である。
 フォルス能力を完全に封じる特殊な設備をもつ収容所で、サレはその嵐のフォルスも、剣も取り上げられた状態で、厳重な警備と監視が施された独房に、幽閉されることとなった。






 ##


 もうここのところずっと、『極秘の任務』であると、ジルバから下された命令を、頭の中で反芻する日々が続いている。
『サレを殺せ。』
 トーマがこの命令を聞いたのは、サレが収容所送りになったその日のうちで、今から一月ほど前である。
 命令を告げたときのジルバの声は忘れない。
 抑揚のかけらもない、ただ、そこにあるものを排除するのだと、それだけ伝える一言だった。
 こちらが即座に返答しなかったからか、ジルバはもう一度、念を押すように命令の文言を繰り返した。
『お前、サレを殺してこい。』
 今度は声に少しばかりの抑揚が付いたかわりに、ぞっとするような冷たさがそこに加わった。
 つい今しがたまで、真夏の暑さが、テラスの窓ガラスを通して部屋の奥まで届いていたはずなのに、急に雲が出てきたのか、室内は驚くほど暗くなった。
 ジルバと自分とを隔てる空間の沈黙は重くこちらを圧迫した。
 すぐ目の前にいるはずの、ジルバの表情すら判然としない。
 ただ、剣呑な光を帯びたようなジルバの眼の光が、これまで一度たりとも感じたこともない、恐怖の色に濁った嫌悪感を呼び覚ますだけだった。
 咄嗟に『サレはガジュマにとって、危険な存在ではない。』という反駁の言葉が頭に浮かんだ。
 ちゃんとこっちで管理すれば、済む話ではないか。
 そういう異論は、それこそ山のようにあったと思う。
 だが、今何を言っても無駄だという、直感のようなものが、トーマにそれを言葉にすることを躊躇わせていたのだ。
 何時の間にか強く握り締めていた掌に浮いた汗を感じながら、トーマは小さく息を呑んだ。
 短い沈黙の間、ジルバの視線が、素早くこちらを観察したのが解った。
 冷静な、それでいて一切の反論を許さないといった隙の無い視線だった。
 ふと気づくと、広い部屋の隅に、護衛らしい大柄なガジュマの、おそらく能力者であると思われる兵士が二人立っていた。
 サレやトーマのいずれの部隊の者でもなく、ジルバが独自に作った部隊の兵士なのであろうが、見たこともない男たちで、無表情に、だが挙動のひとつたりとも逃さないといった視線をこちらに向けていた。
 あからさまに、現在絶対の権力者となったジルバの威光を盾に振りかざし、任務という名の鎧を着て、こちらを監視している。
 不快な、迷惑な兵士たちだと思った。
 その顔も知らない兵士が二人、そこに居るというだけで、トーマは、長年上司として仕えたはずのジルバに、今、まともに対峙できていないような気分にされられ、俯き加減に小さく首をふった。
 これがどういうふうに受け取られるのかを考える余裕もない。
 しかし組織の長としては、いささか感情面に振り回され過ぎる傾向のあるジルバに吐き捨てるような口調で一方的に命令されることなど、これまでに何度もあったことだ。
 今回のことにしろ、サレがヒューマである以上、重幹部であろうと、厳しい処分は免れられないだろう。
 例えどこに逃げたところで、すぐに追手が差し向けられ、捕らえられるのも『時間の問題』であると。
 王の盾からの離反は即刻の死を意味する。
 だからこそ、サレは逃げることをしなかったのかもしれないが、どちらにしろ、このバルカ中に蔓延したヒューマ弾圧の波からは逃げられやしない。
 ジルバは目の前で立ち竦み黙り込んだトーマを、やや白けたように一瞥すると、「結果だけを知らせろ。」と言って、そのままトーマに背を向けた。

『サレを殺せ。』
 命令を受けてしまえば、それに異を唱えることが赦される組織ではなかった。
 やるのかやらないのか、ではない。いつやるのか、だった。
 遂行の期限については特に何も言われなかった。
 殺害の手段についても何も指示されなかった。
 フォルスも剣も封じられたサレはもう、身体的能力においてガジュマに明らかに劣る『か弱いひとりのヒューマ』でしかない。
 何も難しいことではない。『四星のサレ』はもういない。
 簡単なことだろう、と。
 ヒューマという種族は嫌いだ。それは間違いない。
 思念の影響とかそういう問題で無しに、今まで生きてきた間、ずっとヒューマという種族を、『憎んで』きたと言っていい。
 自分の中のヒューマへの差別感情は、ヒューマがガジュマを差別することへの鏡で映した相似形だ。
 こういう異種族への差別感情は理屈を伴わない分、狂気に似ている。
 種族間対立をもっともらしく、その歴史的背景から、あれこれ説いた書物も、この王宮の書庫には大量に納められており、トーマ自身、それらのいくつかを、必要な知識として読んだ。
 だが、実際この世界で見られる差別は、まるっきりの別物だ。
 ただ、そこにある対象への、理屈の無い、むき出しの憎悪そのものだ。
 このバルカでも、とりわけ裕福な階層のヒューマたちは、体力も腕力もあるガジュマを、ただそうだという理由だけで管理し、奴隷のように扱いたがることも知っていたし、トーマ自身、子供の頃に、そういった差別の中に身をおいた経験もある。
 幼少期の過酷な差別体験は、ヒューマという種族への警戒心へと昇華したが、『王の盾』という組織に入ってからは、それを上手くやり過ごす術も覚えた。
 それは先代王が、種族共存を理想としていたからであり、日々日常の時間が、自分の中の差別の刃を鈍磨させたのかもしれない。
 トーマにとって、自分が『王の盾』という組織に目を付けられるほどのフォルス能力を持っていたということが、果たして幸運であったかは、未だもってわからなかった。
 名乗れるような出自も無く、上手く世渡りする要領ももたない自分が、この厳しい階級社会の中でここまでこれたのも、フォルス能力あってのものである。
 だが、『王の盾』という組織の中で、自分はそのフォルスの能力よりも、ガジュマ至上主義者のジルバに、『反ヒューマ感情』そのものを評価されていた。
 当時唯一のヒューマ能力者だったサレと監視役を兼ねて組むことになったのも、その『ヒューマへの差別感情』を買われてのことだった。
 ジルバにとって自分たち二人は、危険なヒューマ能力者とその監視役のガジュマ。それだけだった。
 そう考えれば『四星』という地位には実体が無かったようにも思えてくる。
 しかし、当初はどうあれ、時間が経てば、ヒトの感情は変わっていく。
 決して馴れ合うことなどなかったとしても、幾多の死線を共に乗り越えれば、連帯にもにた感情が湧くのも無理からぬことだ。
 おそらくジルバもそれを知っているのだろう。
 だからこそ、自分に命令したのだ。
 四星の中の、他の誰でもなく、自分に。
 それを証拠に、命令を告げたジルバの目は、到底、信頼する者に対するものではなかった。
 こちらを見据える眼の奥の光はこちらを表情を読み、『トーマ』というガジュマを試していた。
 あの命令を聞いたとき、トーマは、自分の中で何かが壊れた音を聞いた。
 これまで30年近くを『王の盾』のために捧げてきたにもかかわらず、ここで培った価値観を覆し、終わらせたのは、信頼されていたはずの、組織の長の一言だった。
 それまでの自分を取り巻いていた日常は、あっけなく崩れた。
 これまで生きてきて、組織で力を認められて、ようやく手に入れたと錯覚していた誇りや自負といったものが遠ざかり、跡形も無く消え去った。
 そして次の瞬間には、別の感情が目覚めたのだ。
 それは全てが終わった瞬間であり、同時に何かが始まった瞬間でもあった。
 己の中の一体どこに眠っていたのか分からないが、おそらく支配者となったジルバへの『反逆』という言葉に最も近いものが。
 まるで本能的に、小さく芽吹き、それは確実な鼓動を開始した。
 自分が信じ、戦い、歩んできた時間が終わり、それから全く別の、知らない時間が始まったのだ。

『サレを殺せ。お前、サレを殺してこい。』
 耳の奥には、こちらを冷たく見据えながら一方的に告げた声と、それに続いた「結果だけを知らせろ」という、こちらの意図、感情、そんなものを全て排した言葉が残っている。
 サレが、ヒューマだから。
 だが、未だもって耳から離れないあの、不快な、吐き捨てるようなジルバの口調。
 限りなく蔑みにも似たあの眼。
 どれほど自己解決を試みようと、この不快感は一向に軽減されやしない。
 従いたくない。
 誰が従うものか…!。
 あのとき、ジルバを前にして、トーマは唐突に思ったのだ。
 咄嗟のことで思わず腹がたったのも事実だ。言い方があまりにも一方的だったから。
 『誰がお前の命令など聞くものか。』
 日頃から絶対であるはずの上司の命令とて、腹立ち紛れにそう思うことくらい、これまでの日常にだっていくらでもあったはずだった。
 そして「畜生が。」と、そう考えることがそうめずらしいことではないことくらいわかる。
 だが、あのとき感じたのは、そんなものではなかった。
 それは、多分、自分でも分からない自分の中の奥底に眠っていたもので。
 それが今回たまたま、ジルバの命令をキーワードとして、目覚めてしまったのだ。
 そして目覚め燃え始めた火種は猛烈な反発の焔へと、驚くほどの速さで変貌した。
 命令を受けた後、あれから何と言って、ジルバの前を辞したのかも覚えていない。
 だがその日以来、極秘の任務は重くトーマを拘束し続けた。
 あれから一月。
 その密命の言葉から一時たりとも解放されることなく、日々、新しく付けられた部下を従え、表面上、変化の無い日常の任務をこなしながら、今日まできた。
 トーマはその、頭痛のように煩わしい拘束感の中で、反発の焔を抱えながら、芽生え葉を広げ触手のような蔓を伸ばす『反逆』という名の植物を見詰めていた。
 次第、次第にそれが自らを支配しつつあることを自覚しながら、今、試されているのは、自分であるのだと。命令の文言を頭で反芻し、反面でそれを即座に否定で黒く塗りつぶしながら、板ばさみになった精神の抑圧に耐えていた。
 何もせず、無言でいれば、それは従属と何ら変わりが無い。
 何かをやらなければならない。
 だが、冷静に考えて、自分は、あの命令を無視するには、いかにも無力だった。
 今のジルバに逆らうことなど。
 自分ひとりで何ができる?。
 密告が日常の組織の中にあっては、直属の部下であろうと、もう誰も信用できない。
 人事が一掃され、部下が新しく付けられたことは、もはや自分とて監視対象に入ったことを意味している。
 おそらくこちらの行動は何もかも筒抜けなのだろう。
 あまりにも迅速で、計画ずくのジルバの手際の前に、自分はとっくに孤立しているのだ。
 無力だった。
 なんで俺なんだ。
 サレ、何でお前、ヒューマなんだ。


 現実問題として突きつけられた『カレギアの支配者』の命令を前にして、時間は非情に流れる。
 あと10日、あと3日、あと…、と未練がましく、遂行までの時間を数えて、トーマはもう、悪夢のようにそのことしか考えられなくなっていた。







 





To be continued…






2005 1010  RUI TSUKADA



 ストーリー上、サレは用済みとして始末されて命を落とすことになるのですが、その実行役が、他の誰でもない、同僚のトーマであったということにスポットを当てたいと妄想してまいりました。
 トマサレ!。テーマ的にすごくデリケートだと思いますが、とりあえずいま少し、続きます。
 


 
 次回、『獣王山前夜(2)』
 トーマはサレのいる収容所へ赴く。