『恋人』 





「…閣下。」
「何だ。」
 場にそぐわないほどの事務的な返答があり、広い部屋の中で、その張りのある声は思いがけずよく響いた。
 薄暗がりの中、もぐり込んだ上掛けのシーツの布越しにも、次の言葉を促す視線が向けられているのが分かる。
 その意志を含んだ気配の中に、どこか身の内を一巡するような力強さを感じ取り、サレはこれから始めるゲームのために、意図的に気を溜めた。
「あのさ、閣下は、何故僕をこの部屋に呼ぶのかな、と。」
 声音にことさらに平静を装い、シーツ越しの相手の気配が変わらないうちに、すぐに「相当、下らない質問だけどさ。」と付け加え、続く反応に対し、軽く予 防線を張った。
「…愛しているから、…とでも言えば、質問の答えになるか?。」
 案の定、結論先送りで質問口調の、こちらを試すような返答に、相手もこのゲームにのってきたことを知り、サレは上掛けのシーツから顔を出した。
 上目遣いに視線を合わせ、続いて、挑発的に唇の端に作りものの笑みを浮かべた。

 ここでの会話はときおりゲームになる。
 引き寄せたり突き放したり、言葉を小出しに操って反応を受け流したり。
 たくみに操れば、相手が手強ければ手強いほど、愉しみを引き出せる。
 真であれ、嘘であれ、どちらでもいい。
 言葉そのものの意味も、そこに込められた別のものも、所詮、それはこの場限りのものだから、愉しめさえすればそれでいい。
「閣下がそうだと言うのなら、僕も別にそれでいいよ。では、せっかくだから今夜は試しにちゃんと言ってみてくれないかな。」
「…。」
「どうしたのさ?。8年以上も僕に部屋通いさせといて、見返りのお言葉もナシなんて、いくらなんでも随分じゃないかな。」
「…そう言ったところでお前は少しも信用しない。だから私がそれを言っても意味がない。」
 通俗的な男みたいに『今更…。』、とか何とか言って逃げるかと思ったのに、予想外のマトモな相手の反応に、サレは短く笑った。
「笑えるな。閣下みたいな人がこういうときに交わす言葉に意味があるかどうかなんて、いちいち気にするんだ?。随分と乙女ちっくなことだね。」
 見たところまだ余裕はありそうだけど、今夜はやけに神妙にもってくるな。
 おそらくこれも新手の対抗方法なんだろうけど。
 それならばと、サレはまた挑むように見上げる。
 もう少しカマをかけて出方を窺うか。
「ミルハウスト将軍閣下ともあろうものが、随分と些細なことを気になさるものなんだ。大丈夫だよ、適当に言っておけば、僕はここに来るのをやめたりしない よ。」
 ミルハウストが少し困ったように首をかしげる。
 そして物分りの良さげな顔で、
「お前には些細なことでも、私には案外そうでもないのだがな。」と言う。
 嫌味なくらいに美しく整った眉を少しだけ顰めたミルハウストの顔は、憂いを含み、多分、誰もが視線を吸い寄せられる。
 この男の、この譲歩を雄弁に語る表情は、どんな言葉を使うよりも、相手をひるませる強力な武器になる。
 これが今夜の作戦か。
 おそらく意図的にこういう顔を作ることに慣れているのだろうが、思わず一瞬生じた気の緩みの中、ああ、この顔に女は皆、惑わされるわけか。なるほど、こ れなら無理もない。と妙に納得して、「何なら、僕が代わりにさ、」と言いかけたサレをミルハウストが遮った。
「これまでにここで何百回と使い古したはずの言葉だ。なのに、今は使えない。使う価値すら無い言葉だ。私はお前と逢うと、別の自分を発見する。この言葉 は、お前には到底合わない。」
「…僕には合わない?。何故?。便利な言葉じゃない?、使えばいいと思うよ。軽い気持ちで。ここで何百回と使った閣下には、それこそ挨拶みたいなもので しょう。挨拶にいちいち意味を問うひとはいないだろ。それに僕だってそう言われて、少なくとも悪い気はしないと思うよ。」
「お前にそうと見抜かれて、なおもそれを使ったら、私はさぞかし滑稽だろう。」
「…気にすることはないよ。朝になれば、どうせ全部無かったことになるんだから。」
 今度は少し突き放すように言ってサレは、ミルハウストから目を逸らし、そのまま反応を窺う。
 もう少し、ゲームを続けようか。
 隣で、少し息を潜めるような短い沈黙があった。
「…そうだな。例えば私はお前に花も宝石も贈れない。誰もが喜ぶであろうものであっても、お前には、何の価値も意味も成さない。それと同じだ。どれほどの 言葉ですら、意味を持たない。お前は特別だ。」
「僕が特別?、へええ、えらく抽象的な都合のいい言葉のようだけど、僕に花や宝石が意味がないという点については同感だよ。で、閣下にとって、それが僕を この部屋に通わせる見返りだと言うんだね。」
「…いや、そうではない。私も、通常の男がそうであるように、それだけでは到底足りない。例えお前が相手であっても、言葉以外のもので表わしたくなる。気 を引きたくな る。それがエゴであってもな。」
「僕には花も宝石も意味がない、って言ったばかりなのに?。」
「贈りたいものなんだ。意味がなくても。」
「そ、矛盾してるんだね。」
 サレはふい、と横を向いた。
 いつもと随分勝手の違う会話の成り行きに、かなり肩透かしをくらったというか、さっきから一方的にやたらと女扱いしてくるミルハウストの言葉はかなり居 心地悪かった。
 歯の浮くようなセリフを次から次へと顔色も変えずに。サレは少々、苛ついた。

 明らかに最初の気勢を削がれたようなサレの横顔を見ながら、ミルハウストは内心ほくそ笑み、次なる手段を考えていた。
 ここに来るとサレは、言葉でゲームを仕掛けたがるのは知っている。
 遠慮の無い、ときには喧嘩腰とも受け取れる言葉の棘に最初のうちこそ面食らったが、今ではそれにもすっかり慣れ、逆にそれを利用してやろうと思うように なった。
 腹の探り合いなら、本来こちらの方が専門なのだ。
 決して本心を晒さないように巧みに言葉を操っているようなサレであっても、よくよく観察すれば、言葉の端々に本音が見え隠れする。
 このサレから本音の言葉を引き出し、探る。それがミルハウストにとってのゲームだった。
 一見して冷淡に見えはするが、サレは本来冷たいというのとは少し違う。
 職業柄、人の心の裏をかくのに長けている、というのとも違った。
 ヒトの感情というものに、ひどく敏感で、感性が鋭すぎるというのが、サレの本質だった。
 どういうタイミングでどんな言葉を使えば一番効果的なのかを本能のようなもので知っているのだ。
 得意の悪口雑言でやたらと相手の感情を逆撫でしてかかりたがるのは悪い癖だし、相当ひねくれてはいるとは思うが、裏を返せば、サレの本来の潔癖さは、先 程の会話の中の『何かを贈る』という、本来ありふれた行為すら、欺瞞ばかりが目立つようにしてしまうという点からも窺い識ることができる。 
 我ながら物好きなことにも、手強く興味深い対象に結構、夢中なのかもしれない。
 悩むのも、悩ませるのも愉しかった。
 しかしこれはあくまでも一夜かぎりのゲームである。
 せいぜい注意深く言葉を選んでも、せっかく会話の中で読み取った理解は累積することはない。
 そこにやりきれなさを感じ、惜しいと思うが、ミルハウストはそれを表情に出すことはしない。
 サレの本質を理解したとて、次の瞬間には、サレはやはり、言葉を武器にしてしまう。
 一旦相手のペースに載せられてしまうと、嘘か真か境界が分からなくなっているうちに、散々惑わされた挙句にボロボロになりそうだ。

「全く、形式や方便をハナから否定してかかる人間は本当にやり辛いことだな。たとえ一瞬でも、相手の興味をこちらに向けさせることができるのなら、あなが ち意味が無いとも言い切れないだろうに。」
「それって僕のこと?、僕の興味を物で?。それはまた随分と効率の悪い。」
「金額の問題ではない、ということくらいは、お前にも分かるだろう。価値あるものになら、いくらかかっても惜しむことはない。男とはそういうものだ。」
 今度ははっきりとこっちを女扱いした。サレはさすがにむっとした。
「…なるほどね。なまじ金を持っていると、人はそれを自分の力と勘違いする。金持ちってのは、皆そう?。金をかけるだけかけて、相手の反応を見て、支配し た気になって。自分という人間そのものが大きく豊かになったと錯覚するのさ。」
 僕はそういうの軽蔑するけど、…そう言いかけたが、サレは急いでその言葉を飲み込んだ。
 これは混じり気のないサレの本音。
 欲しいものは、うわべの言葉でなく、高価な贈り物でもなく…。
「…。」
 垣間見たサレの本音に、ミルハウストの表情が、急に優しくなったような気がした。
 『ドジッた。』
 サレは咄嗟に先回りするようにミルハウストに腕を回した。
 フォローのつもりで、交わるほど近い吐息の中で、サレは首を小さく横にふった。
 これで誤魔化すか、と半分確信をもって、至近距離で視線を合わせる。
「冗談だよ。閣下の金持ち連中嫌いは、よく知ってるよ。有名だもん。すごく。」
 そう言って、はは、と軽く笑う。

 ミルハウストの、先程の和らいだ表情の中に見てしまった自分に向けられる感情の別の側面は、サレにとってやはり少しだけ重荷だった。
 面倒くさいというのとは違う。
 あんな優しさに応える容量が自分にはない、という方が正しい。
 けれどサレは言わない。
 ミルハウストも聞かない。

「…つまり、閣下にとって『愛している』という言葉を物で表したのが花や宝石ってわけなんだね。だから僕には、その両方ともナシ。…それでいいじゃない。 僕はいいよ。ふふ…、でもそれだと閣下の『愛している』には値札が付いているみたいじゃないか。この場合、気の毒なのは、御婦人達じゃなく、そんなふうに 扱われた花や宝石の方だと僕は思うけどね。」
 軽く結論つけ、この話はもう終わり、とばかりにサレが悪戯っぽく微笑んだ。
「…お前の言葉には、遠慮というものが無さ過ぎる。」
 声にいつもの余裕が戻ったように感じる。
「でも、面白いだろ。」
「お前は攻略が難しい。」
「そうかな。閣下は、結構イイ線いってる方だよ。」
 もう何も言うなと、ミルハウストの唇がゆっくりと降りてきた。
 普段通りの傲慢さを湛えた蒼い瞳に見据えられ、力強い腕で抱きすくめ覆いかぶさってくる。
 不快でない重さを受け止めて僅かに身じろげば、肌に押し当てられた唇が頬から首筋に移動し、続いてすぐに耳たぶに温かな感触があった。
 窓の外の常夜灯のわずかな光を吸い込んで、視界の端で金髪がかすかに揺れるのが見えた。
 サレは思わずその金色を視線で追う。
 ゆるやかな官能が首筋をよぎる唇の感触から押し寄せてくるのがわかる。
 乱れた吐息の中で、熱を帯び始める肌と相反するように、サレは自分の精神の奥底が、しんと静かになるのを感じた。
 眼を閉じる。
 自分とて考えなかったことではない。
 もう何年も、この部屋に通いつづけている間、本当はずっと考えつづけていた。
 ここで自分は本当は何を求めているのか。
 結論は出ない。出すことを拒否しているのかもしれない。
 どれほど会話の中で冷めたふうを装い、ふざけたり惑わせたりしたとしても、こうして一度静寂に包まれてしまえば、触れ合っている瞬間の、もしかしたら馬 鹿げていると言えるほどの安らぎや、甘美な幻に酔う時間を愛しいと思う気持ちは、たぶん、この部屋を訪ねた他の誰とも寸分違わない。
 乙女ちっくなのは、僕の方だな。
 腕を回した背に、言い訳のように爪を立てた。

 窓の外では風が吹き付けて木立がざわざわと連鎖するように鳴った。
 ガラス越しの常夜灯の淡い光に、シーツに映し出された二つの影が、一対になるのを意識してしまえば、やはりそれは、かすかな痛みに変わる。
 …僕は何もいらないよ。だから『特別』に値段をつけるようなことはしないで。
 本来表情の薄いはずのサレの眉根が、わずかに顰められた。
 












 

2005 0906  RUI TSUKADA



 できてる二人でした…。
 特にサレのよーなひねくれさんには、会話は歯の浮くよーなセリフもポンポン恥も外聞もなく言った方が勝率が上がる、と思うんだけど、どうだろ(笑)。