『空』 






 死がすぐそこに迫っているのが分かる。
 霞んだように景色がぼやけ、見るものすべてに視点が合わなくなってきた。
 硬い石畳を背にして横たわり、僕は仰向けになったまま、空を逆さまに見上げている。
 手でちぎったような形の、白い雲が浮かんでいるのが分かる。
 上空はかなり風が強いのか、流れ急ぐ雲の端々から、ときおり光るものが、太陽なのであることは解ったが、本来眩し過ぎるはずのその光すらもう、くすんで 見える。
 致命傷を負った身体には全く力が入らなくて、ついさっきまで剣を握り、敵と戦っていたはずなのに、今はもう指一本まともに動かせない。
 皮膚の感覚も、殆ど残っていないらしく、かなりの深手であるはずなのに、痛みを感じ取ることすらできず、そのくせ身体の芯の方から寒くてやたらと眠い。
 流れ出たたくさんの血が、僕の身体から体温を随分奪ってしまっていて、手足の先からそろそろ冷たくなってきたころか。
 僕は、死の冷たさが僕の身体を支配しようとしているのを意識しながら、ともすればかき浚われそうになる意識を懸命に繋ぎ止め、身じろぎすら出来なくなっ た身体を叱咤して、今あるだけの、精一杯の力をふりしぼり、指先を動かしてみる。
 すると指の先に、硬い石の感触があった。
 指先に意識を集中すると、石畳の上に散った砂のざらついた感触もわかる。
 聖なるものを祀った祭壇の供えられた神殿の入り口の、魔の侵入を封じるための魔除けの紋の刻まれた、この硬く冷たい石畳の上ならば、きっと僕の死に場所 に相応しかろう。
 もうすぐ僕は、これら無機物と同じになる。

 あとどれだけ僕はこうしているんだろう。
 こんなふうに冷たい石の上に横たわって、気力も、この世の全てに対する興味すらも消え失せた虚ろさの中に、僕はあとどれだけ留まることになるんだろう。
 5分?、10分?。
 あるいはもう少し長く?。
 けれどどれほどの時間が残されているのだとしても、僕は、こことはお別れだ。
 ここが僕が居た世界の果ての場所。
 もうすぐ僕は『四星のサレ』でも、『悪魔』と呼ばれた子でも、『化け物』と蔑まれたヒューマでもなくなる。
 この身体が滅びれば、この身に備わった嵐のフォルスも消える。
 かと言って別に怖い訳ではない。
 僕は、本来、このフォルスが覚醒した日に死んでいたはずの人間で、たまたま、こんな妙な力を授かったために、今日まで生き延びただけだから。
 目の前に開かれる道は常に一つだけだったから、僕はそれだけを見据えていたのだし、嵐の刃に殺戮の歓喜の確信と、そしてその後のあたかも免罪符のような 無感覚を与えられて、実のところ、やっと生き永らえてきただけのことだから。
 
 僕は、今にも僕を捕り込んでしまいそうになる重い眠気を振り切って、眼前に広がる空に向かって両手を差し伸べてみた。
 いや。
 既に冷たくなり始めた僕の身体は、もう指を動かすことすら自由にならないはずだから、実際には、そうしたつもりになっているだけなのかもしれないけれ ど。
 僕の眼前には、確かに僕の、空に向かってまるで祈りのように差し伸べた両手があって、その両手の指の間から見える紺碧の空は、天頂から地平に向かって大 きな弧を描いていて、雲はまるで掴めそうに近い。
 その空の蒼さは、僕を圧倒した。
 吸い込まれそうなそれは、その深さをもって瞬時にして僕の身体の平衡感覚を奪い去った。
 頂を横切って走り流れる雲が落としてゆく影も、吹き過ぎる風も、地を背にして横たわる僕に届くときには、こんなににも穏やかだ。
 浅く不規則になった呼吸でさえも、大気の心地よい冷たさが肺を満たし、癒しようがないほどささくれた気持ちも和らげてゆく。
 その蒼い世界には、どこもかしこも光が満ちていて、解放感と、あたたかさと。それと快適な静けさだけがあった。
 僕はその蒼い腕の抱擁を受け、この清浄な大気だけに包まれて、まるでむきだしの魂だけになったように漂い、たゆとう。
 命が消える直前って、こんなににも静かで、豊かで、恍惚とした実りが与えられるものなのか。
 王の盾の『四星』は所詮王国の消耗品だったから、僕は自分の死について考えなかった日など、それこそ一日たりとも無かったと思うけれど。
 理屈で言えば、僕はこの命を惜しんだことなど一度も無かったと言い切れる。
 僕は国の為に命を投げ出す気など、これっぽっちも無かった、いわゆる不心得者だったけど、僕は前線にあって常に『生』に薄皮を隔てて存在している『死』 を意識していたのだと思う。
 でも想像の中での『死』はいつだって、真っ暗な闇の中に沈み込みながら、怒りとか、怨嗟とか、絶望感といったものにまかれて、孤独に苛まれるものばかり だった。
 きっと奥底の本音のところでは、僕は刑の執行を怯え待つ罪人のように、息を潜めて『死』というものを嘲りながら恐れていたんだ。
 けれど今、間近に迫った現実としての死に直面して、命消える直前の歓びに、僕はたぶん、偽りでなく安らいでいる。
 ここには、あれほどリアルに想像した暗雲もなく、淀みきった重苦しい黒い霧もない。
 なんだ。
 死ぬって、案外悪いことでもなかったんじゃないか。
 僕はふいに、瞼のずっと奥の方に、つんとした痛みを感じた。
 そのかすかな、刺すようでありながら快い痛みは、僕の凍えた精神を少しずつ融かし、ゆっくりと塗り替えていくみたいで。
 僕はふと、先程からあれほどの寒さを忘れていたことに気づいた。
 今になって何故こんな気持ちになるんだろう。
 僕はおそらく生まれて初めて、心の底から泣きたいと。そう思っていた。
 哀しいのではない。
 それはまるで、透明の入れ物の中に綺麗な水が注がれて、いっぱいに満たされるような感覚で。
 空っぽだった僕の中に、これまでに覚えのないような、ひどく心地良くて、それでもやっぱり僕にはすごく不似合いだったはずのものが満たしていくような感 覚だ。
 眼前の広がる、晴朗とした静寂の空も、肌を撫でる風の香りも、至る所に満ちた光の感触も。
 それら全ては、やっぱり僕には少し苦い。
 切ないような、苦しいような。それでいてやたらと懐かしい。
 今はもう、錆び付いてしまった幼い頃の記憶の中にだって、こんなふうに、空を見上げたことなどなかったはずなのに。
 僕の中に眠っていた、きっととうの昔に置き去りにしたものが、とっくに殺したものと思っていた、僕のヒトとしての感傷でも起こしてしまったのだろうか。
 今更ながらに哂っちゃうよ。
 終始道具に徹してさ。任務と称して命令されるままに、いや、むしろそれに自負すら感じて、我ながら気味が悪くなるくらいの薄ら笑いを浮かべてヒトを傷つ け殺しまくり、それらにすっかり無感覚になって非道と呼ばれるものの限りを尽くし、挙句の果てに、用済みとして始末されて間も無く死ぬ人間にさ。
 今になって、これほどの豊かさ。こんな慈しみ。
 これ以上ないというくらいの安寧が与えられることになってるだなんて。
 今の今まで、ろくに見上げたこともなく、気にも留めなかった空の中に、こんな深い安らぎがあるだなんて。
 こんなふうに清々しくて、煌く眺めが僕なんかに赦されるだなんて。
 僕は到底想像したこともなかったんだ。
 
 僕は、眠気に重く閉ざしそうになる瞼を懸命に支えて、もう少し、といったふうに、遠ざかりそうになる意識をつなぎ止める。
 すぐ傍にある『死』というものの意外な甘美さを知って、もう、何も怖くないのだと、何も心配することはないのだと、安寧の中に妙に精神が昂ぶったよう な、はしゃいだような気持ちになった。
「…トーマ。」
 ふいに僕は、この空の優しさや風の豊かさを誰かと共有したくなって、傍らに居るはずの、戦友の名を呼んでみる。
 トーマ。お前にも今、こんな安らぎが届いているといいと思うよ。
 同じ光景を見て、同じ気持ちを共有できるのなら、およそ僕達に馴染みの無かった言葉も今は案外自然かもしれない。
 返事は無い。
「…トーマ?。」
 もう一度呼んで、視線だけを傍らにめぐらせてみると、トーマの大きな身体を視界の端に何とか見ることができたけど、その身体はピクリとも動かない。
 なんだ。
 僕は置いてけぼりなのか。
 トーマのへたくそ。…役立たず。
 急所を微妙に外しやがった。
 それともトーマ。お前は最期に僕に、この空を見せたかった、とでも言いたいのかい。

 僕はたった一人になって、もう一度空を見上げる。
 いつも一番近くに居たくせに、ついに最後の最後まで、互いのことは話すこともなく、僕達は結局何も知らないままだった。
 でもそれは共有していた現実があまりにも大きかったから、過去は僕達には関係無かったのからなのだと。
 今ならそう思えるよ。

 一人で見上げた空は、やっぱり少しも変わらず、優しい色をしたまま僕を受け入れる。
 先程と何も変わらず風が吹きゆき、雲は地平を真っ直ぐに目指し流れている。
 ここに手足を投げ出して横たわったまま、僕はもうどれだけの時間の経過の間、空を見上げていたんだっけ。
 けれど僕は、間違いなく、すぐ傍まで来ているものの確かな気配を感じ、瞼を閉じる。
『まあ、退屈はしなかったか。』
 我ながら、すごくカッコ悪い捨て台詞だと思うけど、本当に今は偽りでもなく、そう思えるんだから仕方ない。

 僕はもう一度だけ、僕に本当の死が訪れてしまう前に、その蒼さを眼に留めておきたいと思い、眠気にすっかり重くなった瞼を持ち上げた。
 しかし僕の目は、まるで薄く膜が張られたようになっていて、視界の中にものの輪郭も、色彩も捉えることすらできなくなっていた。
 終わりが近いことを知った。
 その終わりとは、どういうことなのか、その先はどこへ赴くことになるのか、それは解らないけれど。
 でも、僕の目の前にあるのが、闇ではないことは解った。
 それは薄くてぼんやりとして、白っぽくて、すごく柔らかそうな光の塊だ。
 光の束が幾重にも折り重なっていて、そのまるで雨上がりの雲間から差し込む淡い光の道筋のようなもので。
 そのまぶしさが僕に近づいてくる。
「そろそろ。」
 差し伸べた僕の両手が、すっと力を失い、視界から消えた。
「…行こうか。」
 僕は、最期の意識を空へと放り投げ、空も大地も一つになった。














 



2005 0309 RUI TSUKADA

 
 サレの生涯にあったものは何だろう…?。
 天然のヒューマ能力者であり、四星であり、戦士であり続けたサレ。それがいかに狂気と殺戮に満ちた生涯であったとしても、いや、そうであるからこそ、最 期くらいは安らぎの中で。

 てか、病院のベッドで死ぬサレなんて、サレじゃないよね〜(笑)。
 墓も建ててもらえないであろう死に方こそサレの美しさであると思います。