『傷』 





 
 湿度が高くて、やたらと暖かい夜だった。
 昼間の熱気を吸い込んだ空気は深夜になっても気温を下げず、部屋の空気は少し重い。
 雨が吹き込まないようにと、寝室の東側の窓は少ししか開けられず、その狭い隙間からは、水気を含んだ風が流れ込み、薄手の白いカーテンがかすかに揺れて いた。
 流れ込んでくる空気の中には、雨水を含んだ土埃の匂いと、テラスの下の城の中庭に大量に植えられたライラックの香りが混ざっていて、むせかえるようだっ た。
 雨よけに溜まった水が水滴になって滴り落ち、テラスの手すりの金属の部分に当たり、ポタポタと音をたてていた。

 薄暗がりのまどろみの中、僕は隣で人が動く気配にふいに目を覚ました。
 シーツの擦れるかすかな音とベッドの軋むわずかな音が、僕に確実に覚醒を促してゆく。
 けれど僕は眠ったふりをして、身じろぎもせずに、耳を澄ませて隣の気配を窺った。
 隣で寝ていたはずの男がベッドの上で、半分、身体を起こしているのが分った。
 見下してくる視線を感じ、それに軽く警戒しつつ、そうする相手の意図を探ってやろうと、僕がなおも眠ったふりを続けていると、やがて僕の身体の上から、 少しだけ上掛けのシーツがはがされた。
 雨の中をかいくぐって来た夜気が、とっくに汗の引いたむきだしの肩にひやりと冷たい。
 少しの間を置いて、僕が目を覚まさないことを確認したと思ったのか、男は僕の、シーツの上に伏せられた右の手に触れてきた。
「…。」
 何かを試すように、そろそろと僕の指先の方に控えめに触れたかと思ったら、今度は僕の、手首のあたりを探り出している。
 わずかに力が込められたその指は、僕の右手首のところの、手袋の端をつまみ上げていた。
 …ああ、そういうことか。
 僕に絶対に気取られないように、といった感じで、細心の注意を払って丁寧に。
 僕の右の手を暴く作業が開始されたようだ。
 指先の方の布地と、手首にある布地。それを同時につまんで、わずかに皮膚と布地との空間を作って、今度は、ゆっくりと平行に移動を始める。
 その作業ぶりが目に見えるようで、かなりの慎重さで行われていることがよくわかる。

 意外だな。
 こんなふうに、僕達が共に過ごす夜をもつようになって、もう随分経つよね。
 僕は、こんなときでも、あなたの前で一度も右の手袋だけは外したことがないんだけど、それに関して何のコメントもしなかったあなたは、てっきりそれに興 味も無いものかと思っていたよ。
 今になって、とっくに知ってるはずの僕の秘密を暴くのに、あなたは夢中になっている。
 随分と神経使ってコソコソとさ。
 こちらがぐっすり寝入って気づかないと本気で信じて、その悪趣味な作業に没頭している男。
 カレギア王国正規軍の誉れ高きミルハウスト将軍閣下。
 今、あなたがどんな神妙な顔で作業しているのかを想像するだけで、おかしくて仕方ないんだけど、僕は笑い出しそうになるのを必死に堪えて眠ったふりを続 けた。
 でも随分と間抜けじゃないか?。
  僕を誰だと思っているのさ。
 あなたが日頃相手にしているご婦人たちと一緒にしないでほしいな。
 こんなふうに他人が傍にいるような状態で、僕のような人間が、他人に触れられても気づかないほど熟睡できるとでも思っているの。
 けど、せっかくだから。
 その無邪気で可愛らしいリクエストに応えて、せいぜい成されるがままになっててやろうか。
 
 作業の方は、うまくいったもので、布は少しもひっかかることなく、順調に皮膚をすべり、すぐに指先から布の感触が消え、手袋が外されていった。
 男の思惑通りに、手袋が半分ほど外されたあたりで、僕の右手の甲の部分が全部露わになる。
 するとすぐ傍で息を呑む気配がした。
 …なんて解りやすいんだろう。

 でもさ、こんなの僕らがこういう関係になる前にだって知っていたんだろ?。
 大方、『王の盾』メンバーの個人資料の『備考』の欄にだって書いてあるんだろ。
 『右手の甲に烙印の火傷痕あり。』とか。
 『火傷による外的、及び精神的ショックでフォルス暴走。』とかさ。
 本来すごく不安定で、不確実で。只でさえ使い手の精神状態に依存しすぎて暴走しやすいフォルスというものを実用兵器として使うべく、能力者を確実に拘束 し支配し、組織としてきちんと機能させるために、『王の盾』という機関は、個々のメンバーのあらゆるデータを管理している。
 『王の盾』に入って僕は、随分と目をかけられ、大切にされたきたと思うし、そのケアの細やかさにはいつも感心させられてきたけれど、それって、僕は常に 監視されていた、ってことだろう。
 元々、ガジュマの能力者のみで構成されていた『王の盾』の中にあって、フォルス持ちのヒューマである僕なんか、さぞかし要注意管理項目だったんだろう よ。
 僕はこの力の暴走によって、生まれた村も、そこに居た人々も全部破壊してしまったから、あのときの僕のことを知る者はもういないわけなんだけど。
 この力を自覚したときがいつだったか、とか。どういう兆候があったのか、とか。
 この烙印が付された経緯、僕がここに来る前にどういう扱いを受けていたのか、とかも。
 僕がこのバルカに初めて連れて来られたとき、洗い浚い、それこそ根掘り葉掘り聞かれた。
 何しろ子供の頃のことだし、おまけにここに来る前は、ろくでもない思い出しかないから、何をどうしゃべったか、僕自身詳しく覚えちゃいないけどさ。
 僕のフォルスで破壊した村の残骸、引き裂かれた人間達に関しては、あの後、随分調べたんだろうから、僕でさえ知らない、暴走時の嵐の力についても、さぞ かし事細かな記録が残っていることだろう。
 ずっと前から、それこそ僕が『王の盾』に入隊したときから、既に軍の幹部の地位にあったあなたは、側近の誰かにたった一言命令するだけで、そんな資料の コピーくらい、造作もなく手に入れることができたんだろうから。
 あなたはもしかしたら、本人である僕よりも、僕のことに詳しいのかもしれない。
 一体、いつからこんなこと考えてたのさ?。
 本来、他人の私情に興味を示さないあなたには、他人の秘密を覗き見る趣味なんか無いはずなのに。
 知ってたけど、やっぱり現物も見てみたくなった、邪な好奇心を抑えられなかった、ってところ?。
 それを容易に実行できる立場にある者として?。
 これを見るチャンスがある者として?。
 今ふいに湧いた、ただの下らない個人的興味。
 暇つぶし。
 ヒトなら誰でも持っているような、軽くて、低俗で他愛の無いのぞき趣味。
 けど、そうなのだとしても、こんなに何年間も時間をかけて、手間隙かけて、せいぜい僕を懐柔した気になってから行動に移すあたりが、とてもあなたらしく てほほえましいよ。
 で、どう?、これを直で見た感想は。
 おもしろい?。満足できた?。やっぱり気持ち悪い?。
 それとも。
 …可哀相?。

 窓からゆるく風が流れてきた。
 湿気と植物の香りを押し包んだ空気が部屋を満たしてゆく。
 男は指でゆっくりと傷跡をなぞる。
 ひとさし指と中指で、ひどく丁寧に、優しげに、撫でていく。
 指先が皮膚の表面に触れるか触れないか、解らないくらいの慎重さで、「その文字」はなぞられる。
 焼き鏝の刑具によって刻まれた烙印は、手の甲の薄い肉を深く抉り、あれからもう何年も経つというのに、一向に消える気配がなく、その形のまま残り今に至 る。
 まるであの時を境に、死んでしまった僕の感情のように。
 僕という、ヒューマでありながら、生まれながらにフォルスを備えた異端の生命が存在し得たことを証明するかのように。
 僕が生きている間はずっと消えることはなく、変わらずに、鮮明に、留まり続けるんだ。

 あなたが今、なぞり上げたその文字。
 何の頭文字を意味するのか、分かるだろう?。
 それってまさしく、僕という存在がこの世に生を受けたこと、そのものかもね。
 本来生まれるべきでなかったものが命を与えられてしまったこと。
 それってさ、皆が嬉々として崇める神様とやらも、タチの悪い悪戯するんだってことの何よりの証明だよ。
 僕はここに来る前は、ずっと『悪魔』とか『化け物』とか呼ばれていたわけなんだけど。
 案外、神様と悪魔ってのは、グルなのかもしれないね。

 少しの間を置いて、男は密やかで、それでも深い溜息をつき、もう一度、手袋を僕の手に戻そうと試みる。
 何か、とてつもなく、悪いことをしてしまった子供のように。
 見てはいけないものを見てしまった子供のように、そっと自分の悪事を隠蔽して自分の記憶の奥底にだけに、ひっそりと秘密に仕舞い込むんだ。
 きっとあなたは、今見たものを、誰にも教えない。
 起用でずるいあなたは、僕相手にだって、顔にも出さないでいられるだろうよ。
 だから僕は、手袋が半分くらい収まったあたりで、おもむろに眼を開いてやる。
 ほら、驚いた。
 瞬時にして動作が凍ったね。
 視線を合わせれば、さっと顔色が変わって、途端に決まりの悪そうな表情になる。
 その面白いくらいの狼狽ぶり。
 こうなるともう、僕は笑いを堪えるのがかなり辛いわけなんだけど、この後の相手の反応の続きをもっと見てやりたいので、僕は、かなりの忍耐力を使って、 何も言わずに、ただ驚いたような顔を作って相手を真っ直ぐに見詰めてやる。
 こういうふうに見詰めるのが、結構、効果があるんだって。…あなたが教えてくれたんだよ。
 
「す、すまない。…お前がいつもそれを外さないものだから、つい…、本当にすまない。」
 あまりにも予想通りの言葉に僕は内心、大笑いだ。
「…見て気持ちのいいものじゃないからってだけで。僕は別にどうとも。…ただ、それだけのことだよ。いいよ、こんなものでも見たければ、いくらでも。」
 こう言うだけで、男は、ついさっきまでの自分の行動に簡単に懺悔する。
 ひどく哀しげな顔をしてさ。
 まるで悪戯を母親に見咎められた小さい子供みたいな顔をしてさ。
 …ヒトってのは単純な生き物だね。
 傷を晒した相手には、こうも無防備に情けをかけるんだ。
「サレ。」
 僕の名前を呼んで、薄暗がりの中でそのキレイに整った眉が顰められる。
 男は、大切そうに僕の右手をとって、掌で優しげに包み込み、甲に唇を寄せる。
 少しかさついた唇の、それでも柔らかな感触。皮膚を通してヒトの体温が伝わってくる。

 ヒトっていう生き物は、傷ついたものを慰めるのが好きなんだね。
 他人の傷を暴きたてておいてさ、それを殊更に、ぬけぬけと慈しんでみれば、優しさと錯覚したものに心が満たされて、さぞかし気分がいいんだろうな?。
 …よく解るよ。
 実際、憐憫や同情ってものは、役に立つんだ。
 力無いふりをするってことが、使い様によっては結構、有効だってこと。
 僕も一応は知ってるよ。

 男は、相変わらず僕の右手を、まるでこわれもののように扱って、離そうとしない。
 ふりほどく理由も無いから僕はされるがままになってやる。
「…痛かったか。」
 囁くように問われて僕は、「痛かった。」と。そう答える。
 そう、さぞかし痛かったんだろうな。
 この烙印によって覚醒した僕のフォルスによって、切り刻まれ殺された何百人ものヒトはさ。
「…辛かったんだろうな。」
 問われて僕は「よく、覚えていない。」と。そう答える。
 そう、何も覚えちゃいないだろう。
 僕の嵐の刃で切断されたヒトには、その瞬間、ものの哀れなど感じるひますら与えられなかったんだろうから。
「……。」
 溜息のように何か言われたが、その声は、あまりにも低く潜められていたため、瞬間、窓から吹き込んできた風にかき消されてしまってよく聞き取れなかっ た。
 けれど、僕が聞き返す間もなく、男は僕にゆっくりと覆い被さり、その力強い腕で抱きすくめる。
 僕は、その筋肉で覆われた滑らかな肌に頬をうずめたかたちになって、そうなるともう、視界も、感覚すらも外界と遮断される。
 心地よいかすかな汗の匂いに包まれて僕は再び瞼を閉じる。
 肌に頬を寄せたまま、僕は一度息を吸って、それでもやはりどこか形式的に、背に回した両手に少しだけ力をこめた。
 部屋は闇の静けさに満たされる。
 男の優しい吐息が、窓の外の、降り出したかすかな雨音に溶け込んだ。

 今のあなたは随分と間抜けだね。
 騙し合い、探り合いは得意分野だろうに。
 僕の内に潜むものすら見抜けない。
 普段、あれほど賢しいくせに、今、腕の中に何を抱いているのかも解っていない。
 あなたの腕の中にいるのは、虐待されて捨てられた可哀相なヒューマの子?。
 そうだね。
 昔の僕は、到底『悪魔』などと呼ばれるに値しない、非力な、ただの子供だったよ。
 でもこの烙印によって目覚めたのは、やっぱり悪魔の刃だったんだ。
 だって僕があれからしたことと言えば、ヒトを傷つけて殺すことばっかりだ。
 おまけに僕は、切り裂かれたヒトの血のにおいにも、生温かい返り血の感触にすら、すぐに無感覚になれた。
 殺したヒトの数だって、断末魔の叫びだって。そんなこといちいち覚えちゃいないさ。
 けれどあの覚醒の日に死んでいたはずの僕に、何も無かった僕に、唯一与えられたのがこの刃ならば、きっとそれが僕に赦された生きていくための術。
 あなたにとって、剣で敵を屠るという行為は、己の誇りなのかもしれないけれど、僕とっては、ただ、生きていくための手段だよ。
 僕の身に備わった嵐の刃は、まるで僕が呼吸するのと同じに、ヒトを殺してその血を吸って命を繋いでいるんだ。
 そうやって僕は今日まで生き延びてこられたし、これからだってそうして生きていく。
 だから、この命ある限り。
 僕はこの刃で、ヒトを殺し続ける。







 









2005 0303  RUI TSUKADA



 この二人は、まぎれもなく『同属』であるからこそのCP関係だと思うのですが、互いに甘えや依存が全 く無い分、 どうしても渇きがちな関係になりますな(笑)。