『冷たい指(前編)』 







 ここ数日ほどのことであるが、ハイデルベルグの街では奇妙な事件が相次いでいた。
 最初の日には、城下の英雄門が破壊されるという『事件』が起こった。
 ひとけの途絶えた深夜、局地的に英雄門付近だけに地震のような揺れが起こり、ごく狭い範囲においてその『破壊』は起こった。
 事件が起こった時間が人通りのない深夜だったから、幸い怪我をした者はいないようであったが、逆に目撃した者もいなかったから、人的な手がかりは一切得 られなかった。
 付近の石畳の道が根こそぎ掘り起こされるように抉られ、周囲に向かって何本もの深い亀裂が走り、深々と刻み込まれた溝に、片方の柱をへし折られたように なって英雄門が無残な姿を晒していた。
 その次の日には、あの18年前の騒乱を記念した博物館が破壊された。
 やはり人目を避けるために深夜を狙ってのことであろうが、外部から壁を切り崩したその手口はひどく雑で荒っぽいにも関わらず、目撃した者は皆無であっ た。
 博物館の外壁から建物の内部に貫通するまで鈍い打撃を幾度か加えられた痕跡があり、有り得ないことではあるが、それは外部から中途半端な威力の大砲のよ うなものを数回撃った、という仮定が現場の状況からして、一番妥当であるように見えた。
 警察は、当初博物館に収蔵されている貴重な資料や書物を狙った手口の荒い強盗の仕業と見ていたようであったが、その実、展示品は何一つ奪われておらず、 ただ、そこにあるものを破壊しつくしただけの惨状があるばかりだった。
 そして今日、王宮のすぐ真正面の広場と城下街とを繋ぐ陸橋が破壊された。
 橋を通過中だった交易の品や近隣から集められた大量のレンズを満載した何台もの車両がこれに巻き込まれ、深く抉られた橋の下に落下し、無残に破壊された 車両からは決して少なくはない人数の死者が出た。
 ほんのここ数日の間に度重なった不可解な『事件』には、何の前触れも無く突如として起こり、しかも何を目的としてのことか解らないという共通の気味の悪 さがある。
 王宮前の事件にしても、英雄門や博物館の件との関係を疑う者も現われ始め、これら一連の事件は、ファンダリアという国そのものに対する意図的な悪意の破 壊行為なのだと、そういう噂も流れ出していた。
 しかしあの18年前ならともかく、今のファンダリアはもう、内政的にも外交的にも、政治上の不安材料を抱えた国ではない。
 現在のファンダリアは18年前の『神の眼の騒乱』から世界を救った英雄王の治める国であり、近隣の諸国にも積極的に援助を行った穏健な治世は、およそこ のような無秩序な破壊とは無縁のものであるはずだった。
 18年前まで世界の大国として栄華を誇ったあのセインガルドが瓦解した今となっては、外交においても常にリーダー的な立場にある国であり、他国からの攻 撃であるとは考えがたかった。
 しかしこれら気味の悪い三つの事件において破壊されたものの共通点を考えれば、まるでこの国が歴史において、『英雄』と呼ばれる者が治める国であること へのあてつけのようだと、人々の口に上るのも無理のないことである。
 不可解な三つの事件において破壊されたのは、いずれもファンダリアという国そのものを象徴するものばかりである。
 18年前のダイクロフト落下により住む場所も生きる場所も奪われた人々の深い恨みは、表面上の静けさに誤魔化されてはいるものの、やはりやり場の無いま まに、淀みのようになって深い傷となって沈積している。
 ジューダスは、これらの事件の気味の悪さに、直感的に『ある予感』のようなものを感じ、三つの現場に赴いたが、その破壊の惨状に共通する事項として、か つて自分が振るった『地属性』の晶術の痕跡を見たのであった。
 





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 王宮前へと続く街のメインの通りから離れた狭い裏路地の一角にある古く小さい宿の一室のドアを開けた瞬間、ジューダスの全神経はその部屋の中の人物に向 けられた。
 内陸の北に位置するこの国は、日の入りの時間が早く、そろそろ日も陰り出し始め、部屋の中には早くも薄暗い夕闇が立ち込め始めていた。
 『彼』は灯りもつけず、木製の粗末なベッドに浅く腰掛けて、窓の外を見ていたようだった。
 部屋は狭く、寝台のすぐ側の漆喰の壁に、汚れたガラス窓から部屋に差し込んできた弱い陽光を浴びて、『彼』の姿が淡い輪郭の影を落としていた。
 それが初めて見る『人の形』の彼の姿だった。
 初対面であるはずなのに、こちらを振り返るなり「お帰りなさい。」と、ごく自然に柔らかく微笑んで『彼』はジューダスを迎えた。
 男にしてはやや高めの、張りのある声だった。
 けれど部屋に一歩踏み入れた瞬間、ジューダスは全身で彼に警戒した。
 警戒しなければならなかった。
 初めて見た姿であるというのに、一目でそれが誰であるのか解ったということ。
 何故、今になってこの姿をしているのか、ということ。
 この人物には、この人物にだけは。向けられるはずの別の顔も、かける言葉もあるだろうと。
 今、この瞬間まで思っていた。
 彼が『人の姿』をしていることを願ったことも一度や二度ではないはずだった。
 『彼』は生まれる前から自分と出会う運命の存在。
 これまで文字通り片時も離れず常に傍にいて、誰よりも存在を近しくし、いついかなる時であっても唯一絶対の味方だった存在、半身。
 もしもこの瞬間が実現されたのが、例えばあの18年前であったのならば、きっと互いの手を取り合って喜ぶことができたはずだった。
 『彼』が、本当に『ヒト』であったのならどれほどいいだろうと。
 それは18年前、リオンとして生きていたとき、まるで置き去りにされた子供のように、自分を庇護してくれる対象として、人である彼を求め、願いながら、 それは決して叶わない望みだったのだ。
 しかし今、唐突に『人の形』をして現われた彼を前にして、ジューダスは、疑念と警戒に言葉を失っていた。
 ドアに立ち竦んだジューダスと、シャルティエ。
 二人を隔てる空間に存在する、あからさまに警戒したジューダスの雰囲気は、狭い部屋の空気を震わせるように即座に相手にも伝わるであろう。
 『彼』は、ジューダスが、客室のドアを閉める音を合図に、すっと、腰掛けていた寝台から立ち上がり、ゆっくりと近づいてきた。
 視界の中の『彼』は、無駄のない静かな動作と、細身の体躯が印象的だった。
 明るい金髪はまっすぐに伸びていて、肩に少しかかるくらいの長さにきちんと切り揃えられており、彼の動きに従ってゆるくなびき、その端正な顔立ちは優美 とすら言ってよかった。
 目元にこちらを懐かしむような愛想の良い笑みを湛えていたが、美しく若い男にありがちな柔和な雰囲気は、彼のもつ隙の無さに巧みに中和されてしまって、 和んだ感じは得られない。
 無言のまま傍まで近づき、目の前で向き合うと、思ったほど『彼』は華奢ではなかった。
 オリジナルの人間がそうであったように、彼もまた軍人のような雰囲気をもち、少し観察の眼を向けてみれば、すでに完成された大人の男としての相応の威圧 感すらも感じられる。
 しかし一方においては、通常の人間には明らかに存在しない雰囲気がそこにある。
 生きた者の匂いを感じさせず、この世のものではない雰囲気だ。
 それは、あらゆるものに属していないといった、つかみ所の無さ、気味の悪さそのものだった。
 ジューダスは眼前の男に今、まるで痺れるような微弱な『恐怖』を感じ、本能的に困ったことになったものだと、どうすればいいのかと必死に考えていた。
 けれどその眼前の人物の纏う空気、こちらへ向けられる、屈託の無い笑顔がこそが、まぎれもなく、これが『ソーディアン・シャルティエ』その人なのである ということを証明している。
 しかし今になって、何故シャルティエがヒトの姿をしているのか、ということが自分と彼、そして、一度は死んだ人間を現世に再生させた者との間に起こった ことを推測させ、それがジューダスを警戒させていた。
「僕に聞きたいことが、山ほどある、って顔ですね?、坊ちゃん?。」
 間近で問われ、ジューダスは、はっとしたように眼前の男を見据えた。
 声の振動に伴って部屋の冷たい空気が微かに共鳴するのがわかった。
 『ヒト』としてのシャルティエは、確実に自分の目の前に存在しているのだ。
「ああ、そうだ。お前に聞きたいことが山のようにある。…シャル。」
 対峙した相手を『シャル』という愛称で呼んだ自分の声が、思わぬ空疎さをもって部屋に響いたとき、ジューダスは、本来見知らぬ「ヒト」相手に会話をして いるのだとはっきりと認識し、ぞくりと鳥肌が立つような思いをした。
「そう、僕はシャルです。坊ちゃんならすぐに判るって信じてました。聞きたいこと何でも、…なんでも聞いて下さい。…坊ちゃん?。」
 そう言って微笑んだシャルティエの口調は優しかったが、その瞳は明らかにジューダスの疑念や警戒に受けて立つといった挑発の光を孕んでいた。
 今、警戒した自分の過剰な思い込みばかりではない。
 対峙した相手が敵であるか味方であるかを見分ける術は剣士として生きてきたジューダスにとっては殆ど本能だった。
 そしてその本能が、この眼前のシャルティエは、今の自分の敵であることを告げているのだ。
「…。」
 ジューダスは小さく息を吐いてもう一度、自分よりも頭一つ分、上背のある『シャルティエ』の顔をまるで挑むように見据えた。

 リオンとして命を絶たれて、再び生を得るも、再度創生者エルレインの元をも離反した、今の立場としてジューダスは、二重の意味での『裏切り者』である。
 『四英雄を裏切ったリオン・マグナス』としての再生。
 それを否定し歴史の改変の手駒になることを拒み、エルレインの元を去った。
 神に逆らい、命を賭して、かつて自分が裏切り者としての汚名を残した歴史こそ 正しいものであると、本来あるべき姿であると、それを取り戻すのだと、そう決意したことに何も迷いはなかった。
 そしてそうしたことから必然的に自分に降りかかる結末をも恐れはしない。
 そう言い切れる。
 しかし、『シャルティエ』はどうだったのだろう。
 当然のごとく、自分に付き従うものと考えていたシャルティエは。
 シャルティエとて、元々の投射されたパーソナリティは、個性をもった人間個人なのである。
 そして今、『人の形』をした彼を見て、『シャルティエ』が、当然にジューダスと心を同じくし、エルレインに逆らって、自分に付き従ってくれるとばかり 思っていたことが、実は自分のとんでもない思い違いだったのではないかという疑念が沸き起こる。
 剣である『彼』は、主と一体を成すソーディアンだ。
 しかしそれは、主の所有物たる剣であるからこそであって、従うのは、必然的にソーディアンのマスターたる人物に限定される。
 今現在『ジューダス』と名乗り、ソーディアン・シャルティエのマスター『リオン・マグナス』として生きているのではないのだからと、実戦でシャルティエ を使ったことはない。
 そしてそうであるならば、『シャルティエ』の立場から見れば、もはや『ジューダス』は、己がマスターとして付き従う存在ではないことになる。
 すなわちエルレインの力により復活させられた者として見るならば、『シャルティエ』も、ジューダスや、あのバルバトスと寸分立場が違わない、同等の者と いうことになる。
 どちらに与するのも、本来、シャルティエの自由。彼の意志ひとつなのだ。

 「…シャル、これから僕が聞くことに対して、正直に答えてくれ。」
 ジューダスは、警戒と不安に揺らぐ内面をその無表情に押し隠し、親しげに手を伸ばしてきたシャルティエを言葉で遮った。
 そして、そうしたジューダスの所作に僅かに不本意さを表情にしたシャルティエから視線を外さないままに、ドアに後ろ手で内鍵をかけ、一歩、部屋の中に入 り、もう一度、注意深くシャルティエを見据えた。
 以後の会話内容は、部外者の侵入を一切拒むようなものになる。
 そんなふうに警戒を露わにしたジューダスの様子にシャルティエは唇の端をわずかに吊り上げた。
『リオン・マグナス』に最も近しい立場にあるソーディアン・シャルティエが、今になって『人の形』をしていることは、第三者の力の介在を証明している。
 それを成し得るのは、創生の神の代理人、エルレイン。
 そして今、ジューダスの関心は、ここ数日の間にハイデルベルグの街で起こっている『事件』に向かっていた。
 現場に残された地属性の晶術の痕跡。
 自分の他に、『地属性』の晶術を使える者。
 それがこの眼前の男なのだとしたら。
 シャルティエは、ジューダスの意図を読み取ったように、興味深げに次の言葉を待っていた。
 頭一つ分上背のあるシャルティエを見上げるかたちになって二人は向かい合った。
 こんな至近距離で瞳を見つめて会話することが苦痛にならない人間はいない。
 そんな魂の近しさとも言えるものを信じてジューダスは『シャルティエ』の瞳を見つめた。
 シャルティエは、そんなジューダスの意を汲んだように返答代わりに、優しく見つめ返し、また、柔らかく微笑んだ。
 しかし今、その笑みの隙の無さに、先程から沸き起こった疑心がやがて確信に変わるような、あたかも研がれた刃の切っ先を垣間見た。
 そのひどく人工的な笑みに気押されて、ジューダスは次なる言葉を詰まらせ、不本意にも、ヒトの形をしたシャルティエと、これから自分が言わねばならない 言葉に対して怖気づいていた。
「シャル。」
 ジューダスは覚悟を決めた。
 これから自分が発する質問に対する答えが、たとえシャルティエとの現実としての決別に繋がるものであったとしても、聞かねばならなかった。
  『ジューダス』と名乗り、創生者に逆らって、果たすべき目的に向かっている以上、一番身近に居るのが危険分子であってはならなかった。
 そしてそれが『シャルティエ』なのだとしても。
 ジューダスの心情を察したのか、シャルティエの瞳の奥に、名状しがたい光が動いた。
 それは一見、相手の感情の揺らぎや迷いを汲み取る優しみに錯覚しそうだが、こちらの内面を読もうとする、無機的で非情な光だった。
 ジューダスは、わずかに息を吸い込んで、次の瞬間には自分が発しようとする問いに対して、やはりシャルティエが否定してくれることを祈りながら、言葉を 発した。
「シャル、お前は今、僕ではなくエルレインに仕えているのか?。お前がここに居るのはエルレインの命令に従って僕を監視しているからなのか?。」
 その問いを受け、シャルティエの唇に、明らかに作ったものであると解る歪んだ笑みがゆっくりと浮かぶのをジューダスは見た。
「…ねえ、坊ちゃん。僕達がこの世界に再生されられた意味って何?、そんなものあるんですか?。新しい命を与えられて、名前を変えて、もしかしたら新しい 世界が開けるかもしれない、なんて期待、幻想だと思いませんか。ここは所詮、18年前に坊ちゃんや僕がやったことを引きずった最果ての地なんだって思いま せんか?。」
 やや早口にそう言った後、その唇が再び動き、ジューダスが最も否定したいと思っていた最悪の言葉が紡がれた。
「『地属性』の晶術を使えるのは、自分だけだと思ってました?。」









To be continued…








2005 0410  RUI TSUKADA



 エルレインによって再生させられた者として考えたのならば、シャルティエもジューダスやバルバトスと同等の存在であり、まし てシャルティエがソーディアンでなく、「ヒト」ならば、本来、誰に与し、仕えるのもシャルティエの自由であるのだと思います。
 シャルを「物」扱いしてはいけません。
 彼にも個性があります。
 彼を自分の従者だと、うぬぼれてはいけません。
 過去のしがらみ、18年前の「リオン」への優しさや思いやりや愛情。そんなものと、一個の「ヒト」としてのシャルティエ自身を秤にかけてみれば、本来ど ちらの方が重いのだろう。
 私はこのことについて散々考えたのですが、まだ結論はでません…。