『束縛的記憶(9)』
冷え込みは夜明け前が一番厳しい。それは、一年の殆どが雪に閉ざされるこのファンダリアならなおのこと。
ウッドロウは、まんじりともせず、クッションのよい肘掛椅子にもたれ掛かったまま、一夜を明かそうとしていた。
身体は疲労によるだるさがあり、瞼を下ろせばすぐにでも泥のような眠気にからめとられそうなのに、頭の芯のある一点においては神経が研ぎ澄まされて冴え
渡っているようで、それが眠りに落ちることを妨げていた。
リオン。
その名を呟けば、痛みにも似た懐かしさ、ひどく哀しいくせに満ち溢れるような感情が湧き上がってくる。
そして時折、今という重苦しい現実の上に、遠い過去の幸福な記憶の断片が、淡い日差しのように、柔らかな翼をふいに休めることがある。
もう、ウッドロウの人生とは切り離すことができなくなった愛しさと、それと同時に存在する痛恨の記憶の残滓が苦々しく胸を突いてくる。
まるで失った遠い過去を象徴するかのような、その名。
ウッドロウは目頭を抑えながら、深くため息をついた。
肘掛椅子から立ち上がり、南側の広いテラスに面した窓辺の方に歩いていった。
よく磨きこまれたガラス窓の向こうには、夜明け直前の黎明に、蒼く浮かび上がったハイデルベルグの街並みが見える。
その雪の蒼さは、一層この街を静かなものにし、まるで全ての騒乱からその白い薄皮をもって息をひそめるように、静謐の世界とも言うべき平和の中に閉じこ
もっているかのようだった。
海の底に閉じ込められたらきっとこんな気分だろうと思う。
見上げれば白く細い光の粒子が束のようになって差し伸べられているのが見えるのに、それは掌に届く前に脆く砕けて拡散してしまう。
そして胃のあたりに沈殿している微かな不快感と、酸素が充分でないような息苦しい感覚が常に隣り合わせだ。
これが18年前、おそらく最も愛した者の命と引き換えにして守った国の風景だった。
どこもかしこも雪に覆われたその光景は、どこか自分が歩んできた、長くて、孤独な道のりをそのまま白く塗りつぶしたようにすら見えてくる。
ウッドロウは、沈み込む精神をごまかすように、苦く唇を噛み締めた。
この国を愛している。それは王としての自分が。
何百年も続くこのファンダリア王家の嫡子に生まれた者として。
けれどそれは一個の人間としての自分の前には偽りだった。
否定する気もない。
国はいつまでもそこにあって自分という『個人』を放しはしない。
自分が六十になっても、七十になっても、それこそ死ぬまで、どこまでいっても逃げ切ることはできない。
決して遠ざけることのできないものを相手にしたときの疎ましさから一時たりとも解放されないのが自分の運命なのだ。
けれど、とうの昔に切り離され、置き去りにしてきたはずの人としての自分。愛したい、愛されたいという、人として単純で当たり前の欲求を、王になってす
らなおも捨てきれない自分を、再会を果たした『リオン』は呼び起こしてしまったのだ。
それはあまりにも鮮烈で、長い間、自分の置かれた立場と一体のものであった孤独な諦めや、傷つきながらも捨てられなかった人としての自分への後ろめたさ
や
迷いの殻を一気に破壊しつくしてしまったのだ。
ハイデルベルグに『スタンの息子の仲間』として来た彼の姿を見たとき、まさかと思った。
一人になったときを見計らって問い詰め、『リオン』なのだと認めたとき、夢のようだと思った。
何故、であるとか。冷静に考えることも忘れていた。
ありえない幸福な夢。
腕を伸ばせば、当時のままの姿の彼に触れられるという喜びに、長い年月の間の孤独の緊張に強張った身体から力がぬけていくような感覚にとらわれた。
自分を拘束していた全てのしがらみや国主としての立場も。
18年間誰一人として本当の意味での慰撫を求めることができなかった凍りつくような孤独感も。全て両手から滑り落ちていくような開放感に包まれた。
やりなおせる。
悔やんで、悔やみきれなかった過去の記憶が、その瞬間鮮やかに氷解していった。
まるで、たった今まで目に当てられないほど絡み合い、もつれ合った糸が急速にほぐれるような、そんな鮮やかな瞬間、確かな真実。
そんなものを自分はついに手に入れることができるのであると。
しかし彼は、自ら『ジューダス』と名乗り、『リオン』の死は現実であり、『ジューダス』の器は誤った歴史のベクトルの上にあるものだと、そう言った。
それは決して受け入れてはならない現実だった。
何か正しくて、何が誤りであるかなど、この18年間、苦しみ続けた末に見極めた真実を前にして、どれほどの意味があるのかと。
愛を選んで国を捨てるような不器用なことはしない。
国王としての運命が遠ざけることのできない宿命なのであれば、王としての立場も守ってみせる。そして『リオン』も手に入れてみせようと。
そしてそれを成し得るだけの力を自分は持っているのだと。
決して自分では選択することのできなかった宿命に屈したりはしない。
抗えないものならば、運命ごと変えてしまえばいい。
何も彼の言う『修正』は完全に行わなくてもかまわない。
歴史など、現存する人間の力によって塗り替えていけばいいのだと。
そう、繰り返し繰り返し、考えてきた。
だからこそ、ここに留まった彼をどこか脅迫のような形でも繋ぎ止め、毎晩、部屋に呼び、それこそ苛むかのように抱いてきた。
愛によって彼は振り向かないのなら、恐怖でもいい。あのヒューゴ・ジルクリフトがそうして彼を支配し得たように、心ごと束縛してしまえれば、そう考え
た。
けれどどれほど抱きしめても、夜毎どれほどの苦悶に染めても。ふいに何を抱いているのか解らなくなる。
これほどまでに、共に魂を寄せ合いたいと思った相手はいなかったのに。
腕の中に抱いたときですら、与えられる悦楽に身を委ねているはずのその瞬間にすら、彼は何か遠い、潮騒にも似た運命の音を聞いていた。
そしてそれは、重い宿命の末に、非業の死を遂げた『リオン』であっても、新たな生を与えられた『ジューダス』であっても、同じだった。
鎖でつなぎ止めておくようなことをしなければ、いつかはこんなふうに彼は背を向けて歩き出し、手に触れることすら叶わなくなるであろうことも分かってい
たことだった。
「私は、…君を愛しているんだ。」
ウッドロウは静かに息を吸い、それをゆっくりと吐き出し、吐息の中に溶け入ってしまうような弱々しい低い声で呟いた。
呟きはため息のようでもあり、呻きのようでもあった。
そしてそれは、底冷えのするような、たった一人の広い空間に吸い込まれて消えた。
ふと、窓ガラスに映った自分の顔を見た。
室内と野外の気温差でわずかに曇りを帯びたガラスの窓に、少し頬が削げ、やつれたような男の淡い輪郭が映し出されている。
自分の年齢を感じるのは久しぶりのことだった。自分が皇太子であった頃からいつも傍にいた側近たちとともに自然、年月を経てきたから、自分の年齢という
ものを考えずにすんだのだ。
それなのに、失った当時の姿のままの彼と過ごし、その若さに心を奪われていたため、ガラスに映った顔から、走り去った年月が現実のものとして、今、むな
しく浮かび上がってくる。
――ウッドロウ。――
ウッドロウは息をのんだ。たしかに声が聞こえた。
「リオンなのか?。居るなら姿を見せてくれ。」
部屋中を見渡した。だが、この部屋にはどこにもその姿はない。
「リオン。」
―――…ウッドロウ、僕はこれからあの彗星に行かなければならない。今も、雪雲の向こうで『神の卵』が動き出している。あれがこの星の重力圏内に入るま
えに、決着をつけなければならないんだ。―――
冷静な声だった。
これは、彼を部屋に呼んだときに、それこそ毎晩のように繰り返して言い続けていた言葉だった。
聞きたくなくて、彼が『彗星』のことを語ろうとする度にいつも適当に相槌を打って、あるいは唇の端に浮かべた曖昧な笑みで受け流していた。
真剣な双眸を掌でふさぎ、不満そうに言葉を続けようとする唇をふさぎ、会話を中断して黙らせてきた。
そして耳元で、『大丈夫。全部、君のいいようにするから、何も心配しないで。』と、宥めすかすように囁いて、抱きしめて誤魔化し続けてきた。
それが何故今になってこんなふうに鮮やかに聞こえるのか分からなかったが、まるですぐそこに居て、語りかけてくるかのように声は聞こえてきた。
ウッドロウは声の方向、見えないリオンの姿に向き直った。
「決着?、決着って何だ。それが済んだらどうだと言うんだ。…君の言う『歴史の修正』とやらが成されて、君は消えて、私は君のことをきれいさっぱり忘れて
お終い。そうだと言うのかい?。」
これが押し隠し続けてきた本音の言葉だった。
『修正』の話を持ちかけられたとき、問い詰めたいことも、説得したいことも、山のようにあったはずなのに、その現実から目を背け、何もかも誤魔化し続け
て、真剣な眼差しで見上げる彼には、ついに一度たりとも明かすことが無かった剥き出しの自分だった。
――…今、ここにある僕の命は、本来存在するはずのない、仮のものだ。この身体も、あの彗星にいる神の代行者が用意した仮の器だ。…お前なら判るな、
ウッドロウ。―――
再会の喜びを分かち合い、祝おうとした最初の夜、宥めるように彼はそう言っていた。
唇に苦いような笑みを作って静かに告げられたその、この上もなく残酷な言葉に内心、たまらない思いだった。
だからこそ、飲めない彼に無理に祝杯を勧めて、困惑した彼を強いアルコールで染めて、戯れを装って酔い潰した。
「…嫌だ。私には判らない。…誰がどういう意図で歴史をどうしようと私はそんなことはどうでもいい。私は君を失いたくない。君は、…君は。確かに生きて、
ここに居たんだ…。」
気がつくとウッドロウは涙ぐんでいた。眉間に痛みが走り、嗚咽が込み上げて声が詰まった。
我を忘れて、リオン、と語りかけていた。涙をこらえ切れなくなった。
みっともないと思いながらもどうすることもできなかった。
――…ウッドロウ。僕は今、この身体に命を吹き込んだ者に逆らっている。正直、この命がここまでもつとは思っていなかった。だが、これから先、何があろ
うと、僕たちには18年前の記憶がある。あのとき、お前は確かに僕の魂と共に居た。短い間ではあったが、お前は確かに、僕に。…人から愛され、愛するとい
うことの喜びを教えてくれた。そしてそれは、僕たちが敵になっても。歴史書がお前たち四英雄と僕のことを、どう書こうと、何も変わらないんだ。―――
静かに諭すような声だった。
これは、部屋に呼んだ二回目の夜、シーツに半分顔を埋めながら囁いた言葉だった。
彼からこんな言葉を聞くことになるとは思わなくて、そしてそれがまるで永遠の別れを告げる言葉のように思えて、たまらず彼が苦痛に声を上げるのも聞かず
に強く抱きしめた。
「どうして君は、そんなに平然としていられるんだ。私がどれほど18年間苦しんだと思う?。君を守ることができなかった自分の無力さをどれほど呪ったのか
も、あのときのことをどれほど私が悔やんでいるかも。」
ウッドロウは嗚咽を飲み込んだ。
「君は18年前の記憶があるというが、私はそれだけでは嫌だ。私はあのとき選ぶべき道を間違ったんだ。後悔している。そればっかりだ。私は最も愛していた
ものを自分の手で殺めてしまった。そして何よりも大切なものを失ってしまった。今の私は国主という立場に囚われた魂の抜け殻だ。たった独りだ。けれど君は
確かにここに居たんだ。だから、これからもここに居てくれ。私の傍に。そうしたら後のことは私が世界中と協議して何とかしよう。約束する!。」
これが偽らざる自分だと、そうウッドロウは思った。
戦わなければ死んでいたのは自分だった。自分はファンダリアを守らねばならない立場にあった。
けれどどれほどそう自分を納得させようとしても、脳裏に灼きついたあのときの光景は消えない。年月に霞むこともなくいつまでも鮮やかなまま、後悔だけが
塵のように沈積してゆく。
抗い難い運命。そんなものにがんじがらめになればなるほど反比例するかのようにリオンを求め、必要とし、恋焦がれる。
焦がれる度合いは18年間という年月を経て薄れるどころか日ごと夜毎強まった。
どれほど執務に没頭しようとも、国政や外交に精神をすり減らそうとも、考えないようにすればするほどひとりになったときに再現される記憶は鮮明さを増し
た。
だからこそ再会し得たリオンを手に入れるためなら、どんなことでもやってみせる。
自分から『リオン』を引き離そうとするものは破壊し排除する。
それがたとえ歪んだ歴史を歩むものだとしても。
「…行かないでくれ。」
―――ウッドロウ、…僕は、お前達を裏切った人間だ。―――
「それは、君の、…信念に従ったから。」
―――…お前は、僕を憎んでいるか?。――――
「…君を、憎んだことなど、一度も…っ、ない。」
語尾は震えてもう言葉にならなかった。
目の奥が熱くなり、嗚咽を堪えることもできなくなった。
―――…ありがとう。お前に逢えて良かった。…ウッドロウ。―――
わずかな沈黙の後、ウッドロウは言った。「私もだ」。一瞬の煌きのような視線が窓の外に向けられた。
窓の外から日の光が差し込んできた。夜明けが始まっていた。
不意に雲が切れて、その鋭い亀裂の中から、金色の光が貫いた。
すると、それまで蒼紫に染まっていた街全体が、地平線のかなたから、津波のように金色に染まり出した。
「リオン…!。」
叫びのような呟きと、イクシフォスラーのかすかなエンジン音が重なった。
雲の彼方にイクシフォスラーの黒い影が見える。そしてそれは、朱色に輝く朝もやの向こうに吸い込まれて消えた。
リオン。
そう言おうとしてウッドロウは何も言えなくなってそのまま立ち竦んでいた。
金色の夜明けの光に満たされた広い部屋の中でウッドロウは、自分がこれまで一体、何をしていたのか、これから何をしなければならないのか、もう、何もわ
からなくなり、只、両手の指から滑り落ちて行った砂のような過去の音を聞いた。
2004 0229 RUI TSUKADA
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