『さよな
ら』
それは長く続いた冬の季節も終わりに近づき、日を追う毎に、新しい季節の息吹が感じられる頃だった。
ここのところずっと上空を覆い尽くしていた鉛色の雪雲は所々で切れ始め、その黒っぽい雲の隙間には、久しぶりに澄んだ青空が覗いていた。
ファンダリアの短い春が始まろうとしていた。
鮮やかな濃青の空からは、陽の光が白く差し込み、雪に覆われた大地に届き、そこに確かな温もりを伝えていた。
切れ端となって空に残った灰黒色の雪雲から、去り行く季節の名残を留めた淡い雪が、新たに到来する季節の陽光を浴びて、きらきらと光りながら散り落ち、
街の道の石畳や家の屋根に、真綿のように白く、白く積もってゆく。そんな朝だった。
長く、苦しかった旅。
それが今、これから向かう最後の旅路をもって終わろうとしている。
別れの朝、ジューダスは、身の回りのものだけを詰め込んだ、小さな手荷物を肩から下げて、たった一人、ハイデルベルグ城を後にした。
王宮前の広場から城下街に下りて、振り返ることもなく博物館の傍を通り過ぎ、英雄門のあたりまで来たとき、ふと足を止めた。
門の外に広がる外の世界、一面に輝く白銀の光景に目を奪われ、言葉を無くしてしばしその場に佇んでいた。
すうっと胸に一つ大きく息を吸い込み、吐息は白く、冷たい外気に溶けていった。
「リオン。」
ふいにかけられた声にジューダスは驚き振り返った。
「…行ってしまうんだね。」
伴も連れずに一人でウッドロウはそこに居た。
「…。」
二人は無言のまま、舞い落ちる雪を隔てて向かい合った。
少しの沈黙の後、ウッドロウは言葉を選ぶようにしながらこう言った。
「…18年前、君と出会ってからというもの、正直私にとって、この国のことなど二の次だった。本当に。何もかも君のことで頭が一杯で、あのヒューゴ殿から
どうやったら君を奪えるのか、どうしたら君に私のところに来てもらえるのか、そんなことを考えるので日々精一杯だったんだ。そして今も、私の気持ちは少し
も変わっていない。君はけしからんと思うかもしれないが、これが偽らざる私なんだ。…君が選んだ道のことには、私は18年間、随分、君のことを憎んだ。け
れどそれは、私と君と、どちらが善であるかとか、悪であるかとか、そういう次元の問題じゃなかった。君は君の真実を貫いた。そして今の君もそうなんだ。君
の中に私は居なかった。…それだけのことだったんだ。」
そして、「君ほど愛した人はいなかった。」と、そう付け加えた。
ジューダスは静かに俯いて、それから、改めてウッドロウの方を見て、
「…僕はもう行く。」
そう、きっぱりと言った。
一瞬、ウッドロウの瞳に複雑な色が混ざり込んだ。
けれどそれをウッドロウ自身が振り切るようにして、「送るよ。」と言った。
ジューダスは無言で頷き、二人は城門を出て、雪に覆われた石の白い道を歩き出した。
雪を枝々に受けて、白く化粧をした小さな樹氷となった街路樹の道を過ぎて、二人は広く開けた場所に出た。
雪が降っているためか、城下へと繋がる道は人通りが殆ど無く、ときおり城下へと向かう荷車を二、三、見かけるだけだった。
ふと、振り返りみれば、街から歩いてきた狭い道の、積もった雪に、二人の足跡が黒く重なって残されていた。
二人とも会話らしい会話もせずに、一様に言葉が少なかったが、ときおり、ウッドロウが「寒くはないかい。」と、短い言葉でジューダスを気遣った。
二人は、ハイデルベルグの北の平原のあたりまで来たところで歩を止めた。
ジューダスがウッドロウの方を向き直り、ここでいい、と。そして、ありがとう、と言った。
それは何かを捨て去ったような、それでいて乗り越え吹っ切れたような顔だった。
かつて仲間だった、そして確かに愛を寄せ合った。共に居たこと、過ごしたこと、交わした言葉。触れ合ったことも。18年という月日を経ても、なおも色鮮
やかに今、記憶の中に蘇る。
歪められた歴史の中で再会を果たしても、それはほんの短い間だった。
これからウッドロウが送ることになる生涯の中にあっては、正に夢のような時間であり、そしてこれは記憶としても残らないことになる、あたかも一瞬の出来
事であった。
これが本当の別れだった。
道は分かたれる。今はどうしようもないそれを感じる。
道はもう交わらない。もう、二度と会うことも、思い出すこともない。
ふいに上げた眼に、雲間から覗く、真っ青な空が飛び込んできた。
目の覚めるような、その青。痛みのように眩しかった。
───元気で───
別れの言葉が、澄みきった濃青の空に吸い込まれて消えた。
透明な冷たい外気にさらされた吐息は白くて、外の冷気を吸い込んで喉はつっぱったように渇いた。
淡い雪は、静かに二人の上空からずっと降り続いていた。
時折の風に煽られて、巻き立つ雪虫に、身震いすらしそうな寒さであるのに、今はそれも少しも苦にならない。
苦しみぬき嘆き続けたこと、他人を憎んで、何一つ自分一人では解決できない自分の無力さを幾度も呪ったこと、失ったものに対する悲しみや、悼みすら
も。それらすべてを包み込むかのように、今は優しい雪が上空から静かに降りこめていた。
ジューダスは黙ったまま、しばらくの間、そこに佇んでいた。
が、ふと、公道へと続く境界あたりにある大きな落葉樹に視線を移した
それは、樹齢何年ほどになるのかは分からなかったが、見事な大樹だった。
大樹は、その見事な枝を濃青の上空に向かっていっぱいに広げて伸ばし、それらは天に届けとばかりの確かな生命力を感じさせた。
その大きな落葉樹の、黒みを帯びたすべての枝を、上空から降り込める淡い雪がふわり白く、優しく包み込んでいた。
雪を纏った枝は皆けむるようにたち登り、濃青の空に、さしのべられ、それらすべてが、銀白色のほむらをまとって、空へ向かっているようであった。
「花みたいだ…。」
ふと、ウッドロウが目を眇めるようにして空を見上げて呟いた。
ジューダスは、しばらくそこに佇んだままだったが、やがて傍らのウッドロウの方を振り返り見て、唇の端を少し上げて、曖昧に微笑んだ。
その笑顔の儚さにウッドロウはたまらない思いになる。
「…もう少しだけ、送らせてもらえないか。」
少し慌てたようにそう言うウッドロウにジューダスは黙って頷いた。
二人はやはり無言のままだった。
互いに何も言うことなく、ただ黙々と、雪で覆われた道を歩いていた。
さほど広くもない幅の道の上に、星のように降り積もる雪は、真綿のように白くて、周囲全ての喧騒すらも吸い込んでしまったように、柔らかい静けさだけが
そこにあった。
やがて北の平原に停めてあったイクシフォスラーの姿が見え出した。
自然、二人の歩調がのろくなる。ウッドロウは何も言わない。けれどもう、行かなくてはならない。そう思ったときである。ジューダスは、ふと、小さな動揺
を覚えた。
指先に、ふいに触れてきた温かな感触に戸惑ったのだ。
互いの指先が触れ合った次の瞬間、傍らのウッドロウの手が、つかみ寄せるようにしてジューダスの手を捕らえた。
ジューダスは少し驚いて、傍らのウッドロウを見たが、ウッドロウは何も言わない。
何も言わずに、捕らえた手にそのまま強い力が込められ、身体ごと強く引かれた。そしてそのまま力強く抱きしめられた。
「……。」
ウッドロウの腕の中でジューダスは、どうしようもなくこみ上げてくる感情に耐えきれずに瞼を閉じた。
瞼の内の、光に透ける血の朱と、ウッドロウの腕から伝わってくる確かな体温の熱さが、ジューダスの内側に押さえ込み、無理に眠らせていた何かを深く刺激
した。
心臓のかたわらを温かい指でそっと探られたように、あたかも切なく包み込むように。
それは、あくまでも柔らかく優しげに忍び寄ってきて、そのくせ深く的確に胸をえぐったものに。今ひどく動揺していた。
この動揺は、これからの旅路に気分が高ぶっているせいに違いないと、そう、思い込もうとした。
しかし、今触れているウッドロウの身体から伝わる熱さ、腕に込められた力の強さに、それら感じるすべてに甘く眩暈すら感じた。
なんで今更こんな風に。
突然、高鳴りはじめた動悸に、煽る風となって巻き立つ息苦しいような甘いうずきに。
背に回すこともできずに不自然に汗ばんだ掌に。いま、ひどく動揺していた。
しかし、ジューダスは何も言うこともできなかった。
二人はやがて、ゆっくりと離れた。
ウッドロウも、やはり無言だった。
何も言わないままに、少なくとも表面においては、感情を乱すものなどないかのように、そこにいた。
さよなら。ウッドロウ。
二人を取り囲むやさしい白い光景のすべてに、冬のおわりの淡い雪が、陽光を浴びて白くまぶしくかがやくような。
そんな朝のできごとだった。
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