『キス』




 雨上がりのホープタウンは、空気が圧しつけてくるような蒸し暑さだった。
 昼間、太陽にあぶられ、その熱をまともに吸い込んだ砂地や岩場は、時折の叩き付けるような豪雨を受けて、熱を含んだ蒸気を大気中にまき散らしていた。
 不慣れな場所での間借り生活。ここに来てもう二週間にもなる。
 熟睡するには暑すぎる夜、ロニは薄い上掛けを煩わしく払いのけて、身体を半分起こした。
 油汗が粘ついて、喉が渇いていた。
 雨が吹き込むからと、夕方からずっと開けることもできなかった窓は、部屋の湿気を吸って曇っている。
 耳を澄ますと、雨はようやっと小降りになったらしく、外は随分静かになっていた。
 これなら窓を開けてもいいかもしれない。いや、それより少しくらい、雨に当たってもいいから、顔でも洗ってこようと、ロニは身を起こすと、隣に寝ていた はずのジューダスの姿が消えていた。
 いつのまに。
 ロニは枕元からタオルを引っ張り、それを肩にひっかけると、闇の中、石段から土間に降り、何重かにされている布製の出入り口から外に出た。
 気象の厳しいカルバレイス地方では、こういった豪雨がめずらしいことではなく、ホープタウンの家屋は、雨水が流れ込まないように、土と石で高くした土地 の上に建てられている。
 街の灯りが全て落とされている深夜、下り斜面で滑らないように、ロニはほとんど手探りのようにして外に出た。
 深夜だと言うのに、外はむせかえるような熱気が立ち込めていた。
 大気は空気中の熱と湿気で重く肌に纏いつき、少し歩いただけで、すぐにシャツが湿ってきた。
 ひどく静かで、どこを見渡しても動くものとて一つもないような、周囲の時間が眠ってしまったような夜だった。
 ロニは水場の方に向かってしばらく歩いた。
 集落から離れてしまうと、人ひとりがやっと通ることが出来る程度の狭い道しかなく、辺りには真っ黒な草が鬱蒼と茂っていた。
 水辺が近くなるに従って、背の高い強情な草が、競り合うようにして蔓延してきた。
 ホープタウンでは、水汲みは主に子供たちの仕事ではあるが、必ず二人一組で行動するように決められている。
 こんなふうに背の高い草ばかり生えていては、子供の姿などすぐにすっぽり隠れてしまう。
 特に日が落ちてから一人で行動することは厳禁とされていた。 

 随分歩いて、ようやく水場が見え出した。
 視界の遠くにホープタウンの、頼りない常夜灯のオレンジ色の光が小さく見える。
「もう、二週間か…。」
 随分、時間を食ってしまった。カイルやリアラの居所が分からない以上、下手に動いても無駄なだけだと、あいつからは言われているのだが。
「ロニ。」
 突然、闇の中から知った声が聞こえてぎくりとした。
 声がした方向を振り返ると、闇のなかから声の主は現れた。
「何だ。お前も涼みに来たのか?。」
 問われてロニは、息を飲んだ。
 街灯とてない真っ暗な闇のせいでよく見えなかったが、ジューダスは確かに素顔だった。
 ジューダスはロニの視線の意味に気づき、「ああ、これか。」と言ったが、闇の深さに妥協しているのか、さして興味もなさそうに、「こっちに来てみてく れ。」と言ってロニを促した。
 ロニは導かれるままにジューダスに付き従った。
 しばらく一緒に歩いていって、少し低いところに出た。
 アタモニ騎士団で軍隊生活をしていたせいで、それなりに足場の悪い場所でも歩き慣れている方だと思っている。けれどそれを考えてもジューダスの歩調は、 異様に滑らかで速かった。
 二人が歩を止めた頃には、いつの間にか雨は止んでいた。
 切れはじめた雲間から、白い月が時折覗く。
 上空は、かなり風が強いのか、急速な勢いで雨雲が切れてゆき、墨色の空が、一つまた一つと次々に現れてきて、やがては周囲の上空全体に、澄んだ夜空が完 成された。
 下草も木も、月の光を受けて辺りすべてに青い影が落とされて、妙に現実感に希薄な情景が浮かび上がった。
 先ほどまで、あれほど押し包むような熱気に澱んでいた大気に、すうっと、一筋の、清涼な空気の筋が通り過ぎた。
 それに呼応するようにあたりの木々の葉がうなずいて、微かな揺れを大気中に伝え出した。
「ほら、ここだ。」
 ジューダスが指し示す方向には小さな水場があった。
 水場の周囲の空間は、一種、不思議な情景を創り出していた。
 砂漠からの風を受けて、冷涼な水面は清浄なざわめきを奏でていた。
 丈の高い水草や水生の樹木の枝枝に、先程まで降っていた雨の粒や、一切のものがきらめき、すべてのものが濡れて光っていた。
 地面や、草の上に落ちる湧き水の水滴は、幾千もの、美しい珠となって飛び散った。
 雨粒を受けた丈の高い草の葉の小さな滴は、しばらくそこに引っ掛っているかと思うと、やがては大きな滴になって滑り落ち、他の滴と合わさって、やはりひ とつの清水となった。
 昼間の酷暑に乾いて枯れたようになっていた岩場の苔は、雨水を吸って、やわらかく、水を含んで厚ぼったくなり、絹のように光っていた。
 ロニは促されるまま、水に触れた。
 それは、驚くほど冷たく、清潔感にあふれていて、蒸し暑い夜に、汗にまみれて熱を含んだ掌に心地よかった。
 ふいに、ロニは隣に来たジューダスを見た。
 そしてこちらを振り返ったジューダスの、くつろげた襟元の肌が白いことに気付いて、そしてそれに気づいた自分に狼狽した。
  髪が黒いから、余計に肌が白く見えるんだ。そして月の光に照らされて、よけいに白く感じるからだ。そう言い訳してみたところで、今しがた見たジューダスの 肌はおどろくほど鮮烈な印象をもってロニの脳裏を独占した。
 間近にある横顔。
 秀麗な細い眉、長い前髪に隠れてすらも、なおも印象的な切れ長の美しい眼と、意志の強そうなくせに、幼さすらも感じさせるその唇の線。これらすべてが類 い稀な意匠を創り出していた。
 そして、ひどく怜悧な印象のある頬の線に沿って流れる素直な黒髪は、ジューダスの顔立ちに気高さ、それとある一種独特の、何にも冒しがたい純粋な野性す ら感じさせた。
 風が吹き、ジューダスの髪が静かに揺れた。
「ジューダス。」
 ジューダスは少し驚いたように顔を上げ、ロニをいぶかしむようにして見返した。
「どうした。」
「…。」
 ロニは息を吸い込んだ。一瞬、ジューダスの姿が月の光を帯びて、あたかも薄い白銀の粉を纏ったように錯覚した。
「何だ。」
 何だ、じゃねえよ。ロニは頭の中で吐き捨てた。
 ジューダスは、ふいに掴まれた腕に込められたロニの掌の力にわずかに眉を顰めたが、やはりいつもの少し人を馬鹿にしたような仕草で、それでもそれなりの 親しみをもって、いなすようにロニの手をほどいた。
「どうした。暑さで頭がイカレたか。」
 ジューダスの端を上げた唇は、まぎれもなく笑みの形を取っている。
 言葉も意味ほどのキツさはない。むしろジューダスが楽しんでいるように見える。
 その初めて見たような印象。鮮烈な色の美しさも、日頃の冷淡な態度とはうって変わった表情すらも。
 うすい瞼の長い睫毛が月の光に影さえおとすのも、下唇が赤くてひどく柔らかそうなことも。
「何だ。僕の顔がどうかしたか。」
 ジューダスの姿に魅入られていた。
 無言のまま、息を詰めて、取り巻く空気が切羽詰ったものに変わっていく様を見つめた。
「ほら、明日も早いのだろう、そろそろ戻るか。」
 そう言って立ち上がる。終わりになる。
 今しがたロニの中に急激に目覚めた、興味というにはあまりにも温度の高いものが、きれいさっぱり無かったことになる。
 ロニはたまらず無言で先に歩こうとするジューダスの腕を掴んで、強い力で引き寄せた。
「…っ。」
 行動を制限されて不快そうにロニを睨み返し、まるで脚を掴まれた猫のように振りほどこうとするが、さらに引き寄せて顔を近づけると息をのんで黙り込ん だ。
 何かが急激に変わったのではない。おそらくかなり前からずっと、こうしたいと思っていた。
 それは日頃の口論や衝突の中に巧みに埋もれ隠れてしまっていたもので、今、それが全てそぎ落とされて巻き起こった衝動は、もう、止めようがないもので。
 ロニは、半ば無理やりに細い身体の自由を奪った。
 異をとなえようとして開きかけた唇をふさぐ。
 突然の行為に腕の中に捕まえた身体は強張ったが、歯列を割って、強引に舌を口内にねじ込ませると、後の抵抗はなかった。
 口内から、逃げる舌を引きずり出して、思うさま絡めて味わう。
 わずかに身じろぐ身体を抱き込むようにしてなおも深く、感覚がなくなるまで触れる。
 ジューダスの唇は、頑な外見と対極を成すように、あたたかく、柔らかだった。
 信じられないくらいの高揚がそこにあり、放してしまうのは到底惜しく、せっかく手に入れた身体をどこまでも味わってやりたかった。
 そしてそうすればそうするほど、日頃自分に無関心なジューダスが許せなくなっていく。
 思い至れば、これまで何度かロニは妄想の中で、女のようにジューダスを抱いたことがある。
 笑い飛ばして自分の中で否定し続けてきたこと。
 けれど想像の中でしかなかった、限界を訴えて悦楽に喘ぐ顔。それは紛れもなく、今、目の前にある仮面を外した素顔だった。






                                       



 
 2004 1005 RUI TSUKADA
 
 面喰いが仇になったね。
 こうして人は堕ちていくんだよ(笑)。