『再会(前編)』 




 凶悪な侵入者の戦斧に斬りつけられ、倒れた自分に駆け寄った彼の顔が頭から離れない。
 名を呼ばれ、続いてしっかりしろ、と。そう叫んだ声は確かに彼のものだった。
 傷に走った猛烈な痛みと出血のショックで赤く霞んだ視界の中には、黒衣に身を包み、仮面をかぶった少年の姿があった。
 自分の名を呼ぶ彼の仮面越しの瞳の色は、あまりにも印象的で、忘れようもない過去の記憶が呼び覚まされる。
 ウッドロウは何度目かの否定と肯定とを繰り返した。
『ありえない。彼はたしかに…。』
 自分のこの手で、ソーディアン・イクティノスで彼の身体を斬ったときの感触まで、今でもはっきりと覚えている。
 
 洞窟に流れ込んできた海水により、互いの足場が分断されるのは一瞬だった。
 冷たい濁流の中に取り残された岩場に力なく凭れた彼。
 それがウッドロウの記憶に残る、リオンの最後の姿だった。
 『彼』は、彼を仲間と呼んだ者たちによって幾度も斬られ、晶術の炎にまかれ、討ち果たされた。
 服は血に染まり、一見するだけでも、手の施しようもないほど傷は深かった。
 海底にある洞窟で冷たい濁流に呑まれながら、あの状態で単独で生還することなど、どう考えても不可能であると思う。
 けれども万が一。
 こう思う度にウッドロウは胸が締め付けられるようにして彼の姿を思い出す。
 重苦しい立場や多忙な日々に擦り切れ、疲弊し、考えねばならないことを常に抱えてきたけれど、彼のことを忘れたことなど、一日たりとも無かった。
 あの騒乱から18年、まるで憎むことと区別がつかないほどに、彼を想い続けてきたのだ。




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 『英雄王』。
 ウッドロウには、その言葉が一体何であるのか、本当の意味においては分からなかった。
 先の騒乱で、首謀者たちを斃し、神の眼を破壊し、ダイクロフトから地上に凱旋したとき、ファンダリア王の地位にあった自分に自然と付けられた呼称であっ た。
 だが、その言葉に何か意味があるのか、そのために自分が諦めねばならなかったものや、犠牲にしたたくさんのもの以上に大切なものであるのか、そして、 『彼』の存在と引き換えるくらいに価値のあるものなのか、分からなかったのである。
 しかし長い時間をかけてそのことについて考えてみても、決してその答えが自分のものにならないことも知っていた。
 例えば、昼間に城の側近や重臣から、このような問いを投げかけられれば、おそらく幾らでもこの呼称に込められた意味を述べることができるだろうと思う。
 勝利により獲得した平和は分かりやすい。
 その表層の明るさは、他人の評価に依存して得られる達成感でもって己の姿をごまかす方便の役割をしてのけるだろう。
 しかし今、たった一人で、この言葉と対峙したときの虚しさは、本当は自分は、きっとどこかで間違ってしまったのだということの証明なのだと思わずにはい られない。
 ウッドロウは、夜明け前の暗い私室で、寝台から起き上がり、窓辺の方に歩いていった。
 厚手のカーテンの間からわずかに射し込む月の光は、外の雪に反射されて、青白く、驚くほど眩かったけれど、それは決して輝いておらず、どこか重くくすん だ色にも見えてくる。
 こんなふうに夜半、中途半端に目を覚ましてしまうと、朝までの時間はひどく憂鬱だった。
 睡眠不足も浅い眠りも確実に身体と精神を疲弊させていく。
 しかし本当につらいのは、そんなことではなく、長い朝までの時間に湧き上がる過去の記憶が心を苛み続けることだった。
 呼び覚まされる記憶はいつも同じだ。
 あれから同じ記憶ばかりを繰り返してなぞり続け、一歩も前進できないままでいる。
 じわじわと焔であぶられるような愛しさとともに『彼』の姿が脳裏に浮かび、続いて破裂するかのような憎しみにも似た、遣り切れなさが湧き上がってくる。
 そして一旦噴出してしまった思いは、流れ出す重油のように黒々と重く精神を染め続けるのだ。
 こんな今となってはどうすることもできない過去の記憶ばかりが幾度も幾度も精神を浸食し、これを朝まで堪えなければならない。
 本来の自分の性分を考えれば、こんなふうに時を過ごさねばならないようになることこそ、最も恐れるべきであるのだと思う。
 18年前のあの事件に端を発した心の空洞を埋めるものは、この城のどこにも、この国のどこにも、そして、自分自身の中にさえありはしないということを思 い知ったのは、もう、随分前のことだった。
 ウッドロウは、ひとつため息をつき、もう今夜は眠ることをあきらめ、読書灯のスイッチを押した。
 部屋はオレンジ色の光に満たされ、もうこれで朝までこれを消すことはできないであろうと思う。
 あの18年前、ソーディアンの力によって神の眼を破壊し、地上を覆っていた外殻が崩れ、世界には再び光が満ちて、人々は歓喜した。
 凱旋した自分たちを人々は歓迎し、復興の興奮に沸き立つ世界の中心に自分たちは居た。
 そして、四人のソーディアンマスターは、世界中の人々から、いつしか四英雄と呼ばれるようになった。
 しかし勝利の興奮も、やがては醒める。
 あれほどの歓喜も興奮も日常の平和に埋没する時が来る。
 そして、共に戦った仲間ですらも、旅が終わり、それぞれが戻るべき場所へと戻ってしまえば、立場をまるで異にする者たちになった。
 自分ひとりだけが、寒々しい『平和』の中に取り残されねばならなかった。
 自国は地上に降り注いだ外殻やダイクロフトの直撃はまぬがれたものの、ハイデルベルグの被害も決して軽いものではなかった。
 加えて被害を受けた近隣の諸国への援助、難民の受け入れ。戦いに疲弊し、未だ『彼』を失った傷の癒えぬ23歳のウッドロウには、ファンダリア国主として 重い現実だけが突きつけられた。
 まだ自分が本当にやりたいことは何なのかすら見えていなかったせいもあるが、その突然現われた現実に、わずかばかりの自由を絶たれ、未来を全て規定され てしまった形になったことも、また事実であった。
 長い、長い年月を。たった一人で戦ってきた。
 騒乱がヒューゴたちの死によって収束しても、自分の本当の戦いはまさにそのときから始まり、これからもずっと、それこそ老いて死ぬまで続いていく。
 おそらく自分の本来の性格は、形式や体面を嫌い、自由や奔放な生活に憧れる、たぶん平凡と言えるようなものであって、為政者になるには、迷いや情の支配 する部分が大きすぎるのではないかとウッドロウは思う。
 国家や国民全体を愛するよりも、誰か自分だけを光で照らしてくれるような存在を欲する、ただの一人の平凡な人間であるのだと。
 前ばかりを向いて突き進んでいけるような人間には到底なりえない。
 一人になった途端、ざわざわと押し寄せる過去の出来事に今にも呑み込まれそうになる。
 不安、失意、そして孤独。そんな負の感情ばかりが脳裏に沈積していく。
 執務室で一人、自国の治世のための山積の書類を見ていると、あれほどの苦痛や哀しみを乗り越えて、自分が得たものが、いったい何だったのか、分からなく なる。
 しかしそれを考えても決して答えは得られるはずがなく、誰に聞くこともできない。
 己の立場そのものを迷いの対象とすることなど国王としての自分には赦されるはずもない。
 せいぜい自分は代々受け継がれるファンダリア王家の嫡子であったからだとか、自分の存在を求める国民がいるからだとか、日々そう自分に言い聞かせ納得さ せるのが精一杯であった。
 だが、苦痛を伴うような困難が続けば逃げたくなり、孤独に打ちのめされれば安らぐ存在が欲しくなる。
 そして日々の鬱積に押しつぶされそうになるとき必ず、彼の姿が蘇る。
 かつて彼はセインガルド王家の使者として、あるいは国軍の剣士として、ファンダリアを訪問し、自分は皇太子として彼を歓待した。
 出会いはやがて、秘密を共有するような付き合いとなり、逢瀬を重ねるたびに、自分は彼の虜となった。
 しかし、魂を近しくした者と勝手に自惚れていた自分を意に介することもなく、敵となる道を選び、死を選んでしまった。
 記憶の断片を掻き集めて形成された殻の中に閉じ込められ、『彼』は当時の美しい姿のままで精神を独占し、支配する。
 若かった自分に、あのときたしかに存在した、世界を救い、愛する自国の民たちを守るという、清廉すぎる情熱ですらも、長い年月の末に、湖底に沈積する泥 のように埋没していくだけだと言うのに、『彼』の血に染まった最期の姿、苦痛に歪み、 差し迫る死の恐怖に震え蒼褪めた唇までもが、あたかも原色の花のように咲き誇っているのだ。
 もしも自分が国王でもなく、さほど忙しい身でもなかったらどうだっただろう、と想像するとそれだけで恐ろしくなる。昼となく夜となく焦がれる想いに引 き裂かれそうになりながら、記憶の中で彷徨い続け、廃人のようになっていたかもしれない。
「…私は馬鹿だろう…?。」
 誰にとなくそう呟いたが、部屋はしんと静まり返っていた。
 声に出した本音の自嘲ですら、自分がまた己を誤魔化そうとしているのだと感じる。
 あのとき、本当に自分は、どうすることもできなかったのか…?。
 本当は、突然、突きつけられた現実に、足が竦んで動けなかっただけではないのか?。
 過去を反芻すれば、こんなふうに、心は簡単に挫ける。
 女々しい性分なのか、人一倍精神が脆弱なのか。
 情けなさに自分自身に対する憎悪すら湧いてくる。
 これほどまでに過去に囚われ続ける己を哀れに思い続けながら、それでも自分は、ありのままの己を受け入れる勇気すら無く、なおも勝者を演じ続けようとす る。
 気がつくと、自分でも気味が悪くなるような作り笑いを浮かべているような日々ばかりが重なっていく。
 かつてあれほど自分の人生を悔いなく生きようとしていたくせに、今は全力で自分を抑圧しながら責め、そして恥じる。
 自己抑圧が烈しくなると、『彼』に向けた執着もまた激しさを増す。
 どれほど精神が引き裂かれ、ずたずたになろうとも、結局は、もうどうすることもできない過去に絶望する。
「…私は馬鹿なんだよ。」
 再度呟いてウッドロウは苦く唇を歪めた。
 そして窓ガラスに映りこんだ読書灯のオレンジ色の光を見遣ってゆるく首を振った。
 もうずっと長いこと、こんな病的とも言える精神を押し隠して、せいぜい表面に辛抱強く物分りのいい『賢王』の仮面をかぶって、これからも、薄く浮かべた 笑みの裏で、己を騙し続けていかねばならないのだ。






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 他国の政治家でも皇族でもない者たちを、王がまるで特別な賓客をもてなすように扱うことに、ハイデルベルグ城の従者たちは少なからず驚き、興味を持ち始 めていた。
 騒ぎを嫌うウッドロウは、いち早く、スタンの息子だと名乗る『カイル』という少年の出自について確認をとり、友人の息子として歓待することに説得力をも たせた。
 そして彼の仲間だという者たちの素性も明らかにすべく、配下の者達に調査の指示を出した。
 もちろん、スタンの息子の『仲間だから』という理由だけでは、元々体面を重視し、秩序のみを頑なに守る重臣たちの苦い顔を考慮してのことであったが、 ウッドロウ個人として、どうしても明らかにしておきたいことがあったのだ。
 しかし、かなりの人数を調査に当たらせていたにもかかわらず、結局、『ジューダス』と名乗った少年については、その素性は明らかにされなかった。
 その名のものすら、どこにも存在しなかったのである。
 少し詳しく調べさせてみれば、どうやら古都ダリルシェイドの周辺で、しばらく前から黒衣を纏った少年らしい者の姿が見かけられたことを確認できた。
 荒れすさんだ現在のダリルシェイドは、アタモニ神団が崩壊から逃れた建物を接収していて、治安の悪化した廃れた街に、やっと街としての体裁を保たせてい るような状態だった。
 彼らの話によれば、その黒衣の少年にちょっかいを出した数人が手ひどく返り討ちにされた、という目撃談があったとのことだった。
 ダリルシェイド。間違いなく偽名であろう名前。
 そして事も無げに無頼の輩を叩きのめすその剣の腕。
 ふと思い立ち、ウッドロウは側近の者に、『ジューダス』の居所を、カイル達から聞き出すように命じた。
 『彼』は単独行動を好んだ。
 『ジューダス』が本当に彼であるのなら、おそらく今も客室の仲間たちとは一緒に居ないであろう。
 彼を一人で謁見させるという手もあったが、周囲の目もあり、到底本心を聞き出すことはできない。
 側近の者から、『ジューダス』は城下の博物館に行っているということを伝えられ、ウッドロウは静かに立ち上がった。








 To be continued…。



2004 0130  RUI TSUKADA


 髭王の憂鬱でした。

 自分はどこかで間違ってしまった。
 自分は為政者に向いてない。
 挙句の果てに、「私は馬鹿だ。」

 傲慢な優しさと尊大な臆病さをもつ元カレの現状は情けないばかりですな(笑)。
 でもこういうみっともない人間らしさはウッドロウ(41)というキャラクターのおいしいところだと思うよ。

 次回、ジューダスと再会。