『ベルセリオス』 〜王子と剣士(7)〜 |
シャワーの湯で身体を浄め、髪を乾かして、おろしたばかりの服に袖を通した。 服のボタンを全て留め終えると、鏡の前で自分の姿を確認した。 鏡の中からこちらを見返す、その無理に唇を引き結んだような自分の顔は、諦めの虚ろさを湛えていながらも、どこか必然を受け入れ、割り切ってさえいるよ うにも見える。 拭い去れない嫌悪の濁りはあっても、当初あれほど感じたはずの哀しみすらも、もう、さほど際立ってはいない。 リオンは部屋の壁掛け時計にちらりと視線を走らせた。 迷っているわけでも無いくせに、支度に少々時間をとりすぎてしまった。ヒューゴを待たせてしまっていることにやはり形式的に焦りを感じ、リオンは、やや 手早く灯りを消して、部屋から出、ぱたりとドアを閉じた。 何も変わらない。 決して変えることのできない現実を前にすれば、いかに自分が無力であるかを思い知らされる。 遠く離れた地に居るウッドロウをどれほど想ったとて、自分とヒューゴとの関係は何も変わりはしないのだ。 今夜もこうしてヒューゴの部屋へ向かう。 父親である男に抱かれるために。 ## ヒューゴの私室は屋敷の東南の棟の最上階にある。 別棟にあるリオンの私室からは、一度階下に降りて、書記室や史書室の並ぶ長い廊下を渡って行かねばならない。 深夜に近いため、事務仕事をする者や、屋敷のメイドは一人も見当たらなかったが、渡り廊下の途中で、最近執事になったばかりの男に会った。 以前、ヒューゴの計画の幹部であると紹介された男だった。 執事がリオンの姿を観止めたのが分った。男は不自然なほど丁寧にリオンに向かって礼をし、そしてその横を静かに過ぎ去っていった。 何故こんな時間にリオンが別棟に通じる渡り廊下にいるのか、そのことについて、一見、無関心さを装いながらも、目が合った一瞬、そこから感じられたの は、明らかな同情であった。 リオンが東南の棟に向かう理由、それはこの屋敷において、ヒューゴに近い一部の者たちには知られていることだった。 絶対的な権力者であり、リオンを育てた当の本人であるヒューゴに対してとはいえ、こんな身の上になっているリオンを哀れんでいるのかもしれなかった。 リオンはわずかに俯いて、く、と唇を噛み締めた。 自分は他人から哀れまれるような存在なのか。そう思えば思うほど、自分というものが、ひどく惨めに思え、もうどうでもいいから、今すぐこの屋敷から飛び 出してしまいたい衝動にかられる。 しかしそんな気持ちすらも一時の心の揺らぎに過ぎず、リオンは小さくため息をついて、そしてまた薄暗く照明の落とされた長い廊下を見据え、それが必然で あることだけを理由に 目的の部屋へと足を前に進めた。 毛足の短い絨毯の敷き詰められた長い廊下。深夜であることから灯りは最小限に抑えられたこの薄暗い空間を、自分はこうして何度行き来したことだろう。 最初はどんな気持ちだったかとか、そんなことはもう、今となってはどうでもよいことだった。 ヒューゴの私室の重厚な樫の扉の前に立ち、やはり抑制しきれない緊張から小さく息をついて、それから二回ノックして名乗り、短く返される応えに従い、静 かに部屋に入っていく。 淡い室内灯が必要な数だけともった広い部屋にヒューゴは待っていた。 主である男。父親である男。 改めて向かい合うと、その威圧感、高圧的な雰囲気は何にもまして際立っていることがよく分かる。 この男を向うに回して生きていける者など、この世には絶対存在しない。 誰もこの男に勝てないのだ。 ウッドロウとのことにしても、リオンが次第に心を動かされ、気持ちが傾きつつあるということに気付いているようであったが、特に妨害しようとか、リオン に何かを強制するようなことすら言ってこない。 見逃されている。この意味において取り合えず、最悪の事態だけは免れてはいるようであったが、それは逆に考えれば、この、あまりにも巨大な力を持ってい る男にしてみれば、当然のことなのかもしれなかった。 現実的に考えれば、リオンをファンダリアに留めることなど、未だ皇太子に過ぎないウッドロウに出来ると思えない。 ファンダリアの重臣たちが、ヒューゴの感情を逆撫でし、セインガルドに歯向かうようなことを、王子であるウッドロウに許さないだろうことは容易に想像が つく。 ファンダリアの重臣たちは、少なくともウッドロウよりは、ヒューゴとセインガルドがどれほど恐ろしい相手かを認識し、警戒していることだろう。 事実それほどまでに、セインガルドは経済的にも軍事的にも強大で、ファンダリアとは比べものにならない。 それについ最近のアクアヴェイルとのこともある。 他国との外交には極端に神経質になっているであろう今のファンダリアが、王子の私情を優先するとは到底思えない。 「こちらへ来い。…リオン。」 「…はい、ヒューゴ様。」 呼ばれて反射的に強張る身体を、リオンは、感情とは別のところにある意思で、一歩、一歩とヒューゴの方に進めた。 今夜も自分は、この男が飽きるまで抱かれるのだ。 ヒューゴの背後の薄いカーテンを引いただけのテラスの窓からは、白く冴えた月が惜しみなく室内にその光輝を射し込ませていた。 そしてその、どこか酷薄さを湛えた光は、あたかも巨大な影のようなヒューゴのシルエットの輪郭をなぞるようにして、蒼いような光を弾けさせていた。 互いの距離が縮まるにつれ、昏く沈み込みながらも、めらりと立ち昇る拘束の気配をヒューゴから感じ、本能的に身のうちに恐怖にも似た震えが走った。 少しだけ眼を眇めるようにしてヒューゴを見つめれば、澱みながらとろとろと陰惨な欲の焔をゆらめかせるヒューゴの瞳とかち合う。 けれど唇の端にどこか陰気な笑みを湛えてリオンを見据えるそのヒューゴの姿は、月の光を浴びながら、それはどこか厚みのない、現実感すらも希薄な、不可 解な映像のようにも思えてくる。 血の繋がった実の親子。力関係による必然の関係。 見下ろすその視線に晒されていると、リオンは身の内に起こる、ある不思議な感覚に、いつも戸惑いを覚える。 時が止まり、周囲の風景が化石と化し、自分とヒューゴを取り囲む世界が周囲と完全に分断される。 一切の意志すら封じられ、何もかもを仕切られる。 組み敷かれ名を呼ばれるときの疎ましさも、嬲るように触れられる肌の嫌悪感も、いつしかぼやかされ、流されていくのだ。 「さあ…、教えたとおりだ。」 「…はい。」 あたかも幼い子供に課題でも与えるかのように言われる。 従順な人形になればいい。逆らいさえしなければ、ヒューゴの声も表情も穏やかなのだ。 リオンは無言でソファーに悠然と座るヒューゴの前に跪き、そろそろと服の前を指で掻き分けてヒューゴ自身を探し当てる。 それに丁寧に両手を添えて、ゆっくりと顔を近づければ、ヒューゴの手がリオンの髪にかかり、ひとふさ弄ぶように指を絡めてくる。 リオンは、躊躇いを捨てさったように唇を寄せて、それに舌で触れた。 舌先に直に感じる肌の温度差にリオンは少し眉を顰めながら、自らの顔を少しずつ動かして、ゆるゆると舌を這わせていく。 形を確かめるように丁寧に、丁寧に、なぞりあげて時折、唇で吸い上げた。 しばらくそうして、すっかり質量を増したそれに、リオンは覚悟を決めたように唇を大きくあけて、口腔内におさめる。 「…か、…はっ。」 唇の限界を越えたようなそれと、口中に広がり出した唾液とは違う、粘ついた感触に息を詰まらせながら、それでもリオンは懸命の行為を始めた。 幾度も繰り返したはずなのに、この嫌悪感にはどうしても慣れない。 生ぬるい粘り、ずる、と口内で弾けるような感覚に、ときおり驚愕の混じった不快感が沸く。 自然、動きが単調になっていき、それが意に添わねば、ヒューゴはリオンの髪を強く引き、一旦、唇からそれを外させ、ぴしりと頬を叩いて、もう一度、とや り直しを命じる。 「…ッ。」 少し、歯がかすったのか、ヒューゴがわずかに呻くような声を上げた。 ヒューゴの指がリオンの髪をぐっと掴み、その頭を固定するようにして、一層押し付けてくる。 リオンは唇をふさがれたままの咽の奥を突かれるような動きに、くぐもった、どこか悲鳴にも似た声を上げた。 乱れた息が鼻を通してだけ抜けて、その不自然に熱っぽさを含んだ不規則な呼吸は、それだけで一層ヒューゴの興奮を煽り立てる。 けれどどれほど興奮が高まっていこうとも、口中で性の衝動が昇りつめていこうとも、終焉の気配が近くなればなるにつれて、リオンの肌は反比例するように 冷えていく。 淫らに舌を動かして、頬の内側で懸命にヒューゴ自身を挟み込むようにすると、それに応じるようにヒューゴがむごく突き上げる。 欲望はせり上がるように上昇し、リオンは喉を引き攣らせて喘ぐ。 「……っ。」 リオンの喉がぐ、と動き、ヒューゴが数度息を止めた。 いくばくかの周囲と隔絶されたような沈黙のあと、そのまま崩れ落ちるにまかせて、リオンはヒューゴから唇を離した。 俯いたまま、乱れた呼吸を繰り返し、唇の端から零れた欲の残滓を手の甲で拭った。 未だ荒い呼吸を整えながら、打ちのめされたように床に座り込んでいるリオンをヒューゴは冷たく見下ろす。 「続きはベッドだ。」 頭上から容赦の無い声で短く言われ、上目遣いに見上げれば、顎で促されて、リオンは無言のまま、ふらりと立ち上がった。 ベッドの傍らのサイドテーブルと揃いのデザインのアンティーク調の椅子の背もたれに、リオンは取り去った服を折り重ねるようにして掛けた。 肌を全て晒せば、「お前は本当に美しい。」と、言われる言葉はいつも同じだった。 それは決して賛美の言葉などではなく、自らが創り上げた人形の出来栄えに対する評価であるということを分ってはいたが、ヒューゴがそれで満足しているの なら、とリオンは思う。 招かれるままに、ベッドに入る。 言葉も無く、手を伸ばしてきて、有無を言わさぬような力でリオンの細い身体を組み敷いて、顎を掴んで強引に瞳を合わせて、それからようやっと唇が重な る。 行為は執拗なまでの拘束から始められる。口内を犯す舌の動きすらも一方的だった。 歯列をなぞられ舌を絡め取られて、次いで千切り取るかのような強さで吸い上げられ、苦しくなった呼吸に喘ぎ、わずかに首を振って逃れようとでもすれば、 一層強く喰らいつかれ、咽の奥からくぐもった切れ切れの声が漏れようとも、ヒューゴが満足するまで解放されることはない。 行為自体への本能的な嫌悪と、これから与えられることになる肉の苦痛の予感に怯え震える膝を掴まれて、腿に当てられた掌によって容赦なく内股の深いとこ ろから一気に開かれて、ヒューゴの身体を跨がせ、全てを曝け出させる格好を強いられる。 組み敷いた身体を完全に固定し、全ての抵抗を封じてから、次いで唇と舌による愛撫が全身に施される。 そのあたかも目の前に薄い膜を掛けられていくかのような愛撫に、まるで解剖される実験動物のような惨めな自分の姿を想像しないようにきつく目を閉じなが ら、それでもリオンの身体は懸命にヒューゴに応える。 けれどそうしているうちに、ヒューゴはやがて完全な支配者へと変貌する。 一切の言葉すらもないまま、リオンの身体は押しつぶされていき、いたぶられる。 まるで憎み、軽蔑しきったものを扱うかのような抱き方。 ひたすら従属を強いる嗜虐的な行為。 喘ぎが苦痛を訴える声に変わり、やがてはそれすら言葉を成さない悲鳴にかき消されるようになっても、ヒューゴは決してリオンに対して手加減というものを しなかった。 リオンが痛みに声を上げれば上げるほど、ヒューゴはより一層、興奮していくかのようだった。 背後から圧し掛かられて、重く熱いものに幾度も幾度も貫かれ犯される辛く長い責め苦に、ともすれば掻きさらわれそうになる意識をせめて保つように、もう 赦してくださいと懇願しようとしても、そのときには既に口の中も咽の奥も、恐怖に引き攣り、からからに乾いて声が出ない。 感情と身体が切り離されてしまったように、やがて思考も理性も麻痺してゆき、歪んだ欲の海の底に沈み込むようだった。 荒く息をはずませながら、圧し掛かり蹂躙する男の姿は、涙のせいで、もう、室内灯の光なのか、水底に差し込む僅かばかりの光なのか、区別もつかなくなっ た霞んだ視界の中で、一層、現実感は希薄なものになっていく。 自分の口から上がる悲鳴と寸分違わない嬌声さえも、遠く聞こえる。 それら全ては、あたかも海の底で見る幻のようだった。 散々に痛めつけられるような行為が終わったあと、リオンは、いつも傷ついた身体を引きずるようにして自室に戻る。 ベッドに身を投げ出して、ひどい疲労に身を委ね、シーツに顔をうずめても、もう、涙すら湧いてこない。 抱かれ始めたころは、それこそ嫌悪と悲しみで気が狂うかと思ったくらいだったはずなのに、今となっては、しらしらとした諦めの中に自分を全部預けてしま うことすらできるようになった。 常に自分に嘘をつき続けていれば、あたかもそれが真実かのように思えてくるかのようだった。 しかし、ふとリオンはベッドの上で寝返りをうつように仰向けになって、白い天井を眺めながら考えた。 ヒューゴには、他所に女がいないのであろうか。 リオンの母、クリスが死んでから、もう随分になる。リオンが生まれたすぐ後にクリスは死んだのだということだから、16年以上も、ヒューゴは独りでいる ということになる。 大企業の総帥という立場、そしてまだ男としては充分に若い部類に入るヒューゴが再婚もせず、外に愛人も持たないのは、むしろ不思議だった。 リオンは、ベッドの枕元に立てかけてある愛剣を引き寄せた。 「…シャル。」 「何ですか、坊ちゃん。」 優しくいたわるような声。ヒューゴの部屋から戻ったときのシャルティエはひどく優しい。 「…母上は、…どんな人だったのか、お前、覚えているか?。」 やや躊躇うように問われたその言葉にシャルティエは少しだけ驚いた。 リオンは家族の話をしたがらない。 そしてそれはリオンの身の上を思えば当然のことであったが、その意外な問いかけにシャルティエは主への優しみを募らせた。 主従の関係ではあるが、むしろ一番近しい存在であるという自負もある。 「…クリス様は、それはもう綺麗な方でしたよ。…坊ちゃんと同じ黒髪で、紫色の瞳をしていて。それにとてもお優しい方でした。…出入りを禁止されていたこ の部屋にも来てくれて、坊ちゃんに子守唄を聞かせてあげてたんですよ。」 「…そうか。」 「身体があまり丈夫ではない方だったので、…お気の毒でした。」 クリスの死因については、リオン自身、誰に聞くこともなかったし、ヒューゴともクリスのことについて一言も話をしたことがないので、殆ど知らない。 「母上は、…ヒューゴを、愛していたのか?。」 「…ええ。」 リオンには、母親の記憶はない。どんな顔をしていたかも、どんな声をしていたかも、全く覚えていなかった。 その記憶の片隅にすらもない、想像の中でしか存在しない、ヒューゴの伴侶であったという、たった一人の女は、やはり、世間一般の夫婦と同じように、夫を 慈しむ妻であったのかと思えば、何かとても不思議な気持ちであった。 「ヒューゴは、母上を愛していたか?。」 「…たぶん。」 シャルティエが曖昧に言葉を濁した。 その歯切れの悪さに、リオンが無言で次の言葉を促した。 「ぼくも、クリス様が、…亡くなる前に、坊ちゃんに語りかけていたのを聞いたにすぎないから、全部知っている、ってわけじゃないんですが。」 そう前置きして、シャルティエは語り出した。 リオンの母、クリスはダリルシェイドでも名門で通った貴族階級の家の一人娘だったという。 当時、一介の考古学者に過ぎなかったヒューゴとの結婚は、かなり周囲からの反対を受けたにも係らず、それでも深く愛情を寄せ合った二人は、駆け落ち同然 にして結ばれたのだと。 裕福な実家から一切の援助を受けられなくなっても、令嬢育ちだったにもかかわらず、彼女は健気に学者・ヒューゴを支えていたのだと…。 「そして、ヒューゴは、ぼくを発見しました。」 リオンは、小さく頷いた。 当時世紀の大発見と騒がれた、1000年前の天地戦争の遺物である、ソーディアン・シャルティエの発見だった。 それでヒューゴは考古学者として一気に知名度を上げ、その地位を確固たるものにし、博士号の肩書きを手に入れ、自分自身の研究施設を持つことができたの だと。 「…けれどね、発見されたソーディアンは、ぼくだけじゃなかったんです。ぼくが発見された場所から少し離れたところに、他にももう一本、ありました。」 どこか声を潜めるようにして言うシャルティエの言葉に、リオンは頷いた。 それだと思われるものを、リオンは幾度かヒューゴの私室で見たことがあった。 ヒューゴの私室のベッドの反対側の壁際には、普段、まったく開かない飾り棚がある。 いつものように散々に陵辱された後、一人取り残され、ベッドの上から這いずるようにして降りて、床に座り込んで、薄闇の中で服を身につけているとき、ふ と、瞼の腫れた眼で見上げた、飾り棚の中に嵌め込まれてあった黒い大剣。 ガラスを隔ててすらはっきりと感じ取れる、その圧倒的な威圧感は、つい先ほどまで、自分を身体の下に組み敷き、苛ぶった男そのもののような雰囲気を湛え ていた。 何かとてつもなく恐ろしいものを見てしまったようで、そのときリオンは思わず眼を逸らしていた。 おそらくあれがそうだったのだろう。 けれど、ソーディアンはマスターと出会って、一対となり、初めてその能力を発揮することができる、言わばマスターとは一心同体の兵器だ。 そしてソーディアンの声を聞けるのも、必然的にその特性に応じた晶術が使えるのも、ソーディアンに選ばれたマスターだけだ。 飾り棚の中に封じ込められ、なおもそこから溢れ出すように邪気を発している、あの黒い大剣、『ソーディアン・ベルセリオス』。 「…どうもおかしいんですよね。…ぼくだってソーディアンですから、マスターの資質がある者ってのが、すぐに見分けられます。最初ぼくが発見されたときに は、確かにヒューゴからは、何も感じなかったんですよ。」 ヒューゴは考古学者だったのだから、少なくとも当時のヒューゴは剣を使わなかったはずである。 けれど、現在においては確かに、ヒューゴからマスターの資質を感じるのだとシャルティエは言う。 リオンには、あの飾り棚の奥にあるベルセリオスが夜毎ヒューゴに語りかけ、ヒューゴもまた、その声に耳を傾けているように思えてならない。 「…あのベルセリオスを発見してからですね。…ヒューゴが変わったのは。」 リオンは、シャルティエのその言葉に沈黙した。 リオンの中にある、昏く澱んだような過去の沼に、ぽとりと小石が投じられたような思いにかられた。 動揺を覚えて身震いした。 「いつぐらいだ。」 どこか上の空でリオンは自分の声を聞いた。 今、咄嗟に浮かんだ、ある仮説のため、どこか脳の神経がふつふつと煮えるような音を立てた。 「坊ちゃんが生まれる、2年と少し前のことです。」 「……。」 血の気が引く感覚があった。 今のヒューゴは学者ではない。学者の真似事すらもしない。 自分の知るヒューゴは、世界の財界に君臨する大企業の総帥であって、大国セインガルドの国政も軍隊も思うままにあやつる巨大な権力を手にした男である。 とても同じ男のなし得る所業とは思えない。 そして、ヒューゴがオベロン社を興したのも、時を同じくする。 まるでソーディアン・ベルセリオスを手に入れたときから、まるっきり別の人物と、そっくり入れ替わってしまったかのような。 「…坊ちゃん。」 シャルティエの声がどこか遠く聞こえた。 瞬きすることを忘れてしまったかのようだった。 あの男は、『父・ヒューゴ』ではないのではないか。 …だったら、あいつはいったい誰なんだ。 もしも、自分の仮説が正しいのならば…。 ヒューゴがソーディアンを発見しなかったのなら、平凡な学者としての生涯を送ったということになる。 クリスも、不幸な死に方をすることなく、そして自分も、普通の親子として母親とも父親とも仲良く暮らせていたということになる。 そんな平凡で到底手に入れることのできない道が自分にあったかもしれないという可能性。 けれどそうであったのならば、自分は剣士にはならなかったであろうし、シャルティエとも出会えなかった。 王宮の客員剣士にもならなかったであろうし、そうであれば、当然、他国の王族であるウッドロウとも会えなかったであろう。 つまり全く別の人生を歩んでいたことになる。 今の自分とは、全く別の自分が、この世にいたことになる。 すべての事象は一本の、揺るぎの無い運命の糸で繋がれているかのようだった。 それは恐ろしいほどに偶然の積み重ねによって形成され、そこには自分などでは到底抗いきれぬ、運命の奔流のようなものを感じずにはいられない。 そして、その奔流の中で、もだえ苦しみながらも、リオンはそれに身を委ねきっていた自分を自覚した。 |
2004 0402 RUI TSUKADA |
TODの悲劇の元凶である『ベルセリオス』とヒューゴとの関係について、リオンが疑問を持ちました。 ドラマCD『プルースト』では、これらの関係にリオンがはっきり気づいたのが、『海底洞窟』後でしたが、次回、生身の状態でこの問題と対決させます。 あと2回で完結です。 書きたかったことを書ききって終わりたい。筆力が追いつかなくとも妥協だけはすまい。 …いつも思っているんだけどね、これがなかなかねぇ、わはは。 次回『王子と剣士(8)』 己の無力に嘆く前に運命と戦えリオンちゃん!。 ちなみに新しく執事になった男。これはシャイン・レンブラント。イレーヌのパパ。 ヒューゴ陰謀の幹部。TODの中ボス様。 『白い薔薇』の回に居た執事は別の人です。 |