『父と子』 〜王子と剣士(6)〜 |
早めにハイデルベルグ城を辞したつもりではあったが、リオンがダリルシェイドに戻ったときには、もうすっかり夜になっていた。 オベロン社の総帥専用飛行艇から空港に降り立ったとき、ダリルシェイドは雨が降っていた。 ハイデルベルグでは、ずっと街中を覆い尽くすような雪を見ていたから、足元に跳ね上がる水しぶきも、街の空気も、心なしか生ぬるく感じる。 マントを濡らす雨水に刺すような冷たさがないのを感じれば、ハイデルベルグとダリルシェイドは随分遠いのであるということを実感せずにはいられない。 さすがに疲れたと思う。 今回の任務は分刻みで時間的に余裕が無いものであったから、身体の疲れは相当なものだった。 しかし、それ以上に、精神的に疲れていた。 ただでさえストレスの高い任務の内容に加え、昨夜のウッドロウの決意にも似た告白に、リオンは身の竦む思いをさせられ、結局ほとんど眠れなかった。 道中の飛行艇の中で仮眠をとるにはとったが、その分、食事は朝から取っておらず、疲労は身体に沈積したままだった。 ダリルシェイドの通用門の衛兵の敬礼に視線で返事をし、リオンはセインガルド城下街へと足を踏み入れた。 ダリルシェイドの街は、一般の庶民が住まう家や、色々な商家の立ち並ぶ地区から、セインガルド城近辺の貴族たちが住まう地区までの長く続く道全面に、 ずっと石畳が敷き詰められている。 雨に濡れた路面には、無数の小さな水溜りが出来ていて、それらは常夜灯の光を照らして、あたかも漣だつ湖のように静かな光を放っていた。 時折の雨交じりの風に目を眇めながら、リオンはひとけの途絶えた夜の道を足早に歩を進め、ヒューゴの待つ屋敷へと向かった。 ## 淡々と報告書を読み上げるリオンの言葉を、ヒューゴはいつものように、テラスの窓から街の夜景を眺めながら黙って聞いていた。 一つの報告が済むと、次を促すように、ときおり小さく頷くのが分かる。 たとえ無言で、なおかつその表情が見えなくてもリオンは一瞬たりとも気を抜けない。 その頷くときに僅かに動く肩から、自分を見下ろし、威圧する気配が伝わってくる。 リオンは、声音や口調の中に疲労を見せないように、必要以上に神経を尖らせて、その極めて正確にまとめられた任務報告書を読み上げた。 「…以上です。」 報告が終わると、リオンはヒューゴに悟られ無い程度に小さく、一つ息を吐いた。 「ご苦労だった。」 抑揚のない短い言葉ではあるが、とりあえず報告内容にヒューゴが満足したことに安堵した。 「…ありがとうございます。」 形式的に返事をしたつもりではあったが、語尾に少しだけ、上ずった色が混ざり込んだことにリオンはひやりとする。疲労しきった内面を悟らせたくなかっ た。 リオンが姿勢を正したまま立っていると、突然、ヒューゴがくるりと振り返った。 その変化に内心どきりとしながらも、リオンは極力表情を殺してヒューゴに向き合った。 ヒューゴは冷静に、こちらを観察するような視線を向けていた。 そしてその、少しばかり長すぎる重い沈黙に、リオンの集中力が続かなくなってきたあたりで、視界の中でヒューゴの姿が次第に大きくなった。そのとき ヒューゴ がこちらへ向かって歩いてきたのだということに気づいた。 互いの表情がはっきりと分かる程度の位置まで来て、ヒューゴはピタリと歩を止め、リオンの正面に立った。そして、表情も変えずに、つと腕を伸ばし、掴ん だリオンの二の腕を強く引き、そのまま細い腰を抱き込み、続いて左手で、ぐい、と顎を持ち上げた。 「……。」 言葉も一切無いままに、あたかも当然のように行われたその暴挙をリオンは静かに受け止めた。もとより抵抗など無駄なことである。 顎を掴み上げたヒューゴの指は、おそろしく強く、鋼の箍のようだった。 ヒューゴは、観察する視線のまま、至近距離でリオンを顔をじっと見つめ、二人は、その状態のまま、しばらく静止した。 抱き込まれた状態で見上げれば、ヒューゴの鳶色の瞳の中には、明らかな独占や支配といった感情が渦巻いているのが分かる。 それは、力関係を利用して一切を我が物にしている支配者の視線そのもの。激しい欲望を顕にしたかと思えば、反面、ひどく合理的で冷淡な性格の側面も垣間 見える。 ヒューゴはそんな極端な多面性をもった男であり、それゆえいっそう、自分は拘束されていき、支配されていくのだとリオンは自覚する。 けれど、たとえこんなときであっても、リオンはその、食い入るような視線に目を逸らさずにいられるようになった。 諦めや落胆といった、ヒューゴが最も嫌うであろう弱者の表情を押さえ込み、一切の感情すらも混ぜ込むこともなく、ヒューゴの刺し貫くような視線を静か に受け止めて、まるで遠い景色を見るように、人形のような無の表情でヒューゴを見返すことができるようになった。 これだけ散々、物扱いされていれば、こんな表情もできるようになったし、次に続くのであろう暴力ですらも、例えば目を開けたまま、表情すら殺してやりす ごせるかもしれないと思った。 ヒューゴの視線を面に受けながら、夕べ眠れずに考えていたことが、ふと頭をよぎった。 ヒューゴとは、自分にとって、本当は何なのだろう。 実の息子として扱われたことなどないのに、この、あまりにも密に過ぎる個人的関係は、部下に対する扱いですらもない。 今、こんなふうに見つめられれば、恐怖を感じるべきであるのに、今日はその疑問の方が先にたって、どこかごまかされ、薄められていくような感じすらし た。 リオンは無言のまま、表情の死んだ空洞のようなまなざしで伏目がちにヒューゴを見返した。 やがてヒューゴの全てを見透かすような視線に晒されて、窓に打ち付ける雨粒の音も、部屋の空調の音も、すべての音が遠く離れていくような気がした。 沈黙だけが二人を包み、周囲の音が一切聞こえなくなった。 長い沈黙の後、ヒューゴはリオンの身体を巻き込むようにして、首を斜めに傾げて唇を重ねてきた。 肩を抱きこまれ、両腕の中にくるみ込まれるような格好になり、リオンは、そんな自分を、まるで肉食の猛禽に捕らえられた小動物のようだと思う。 その鋭い爪に掴まれ、大きな翼で覆いこまれてしまえば、抵抗はおろか、自分の視界すらも封じられる。 唇が触れた一瞬、本能的に強張った身体も、深く重なればすぐに力を失い、全てをヒューゴに委ねる格好になる。 けれどその口付けには性欲の焔は感じなかった。 重く圧し掛かるような身体や、巻き締めるようにして抱き込む腕から伝わるのは、拘束と支配の気配だけだった。 しかし、これこそが他の男には無く、ヒューゴだけにある気配だった。 リオンの頭の中に白っぽい霞が広がった。時も現実もどこか曖昧に流され、やがてはそうして流されていることすらも意識できなくなり、リオンはただただ必 然としてヒューゴの口付けを受け入れた。 しばらくそうした後、ふいに唇が離れた。 リオンがヒューゴの腕に抱きこまれたまま、ようやっと開放された唇で小さく息をついでいると、ヒューゴがリオンの首筋の耳の下あたりをじっと凝視してい るのに気づいた。 「誰かと寝たのか。」 耳元で問われた言葉に、リオンはぎくりとした。 「……。」 ヒューゴの恐ろしさについて、認識が不足しているウッドロウは、夕べわざと服で隠れない箇所に紅い刻印を付けた。 まぎれもなく、ヒューゴへの挑戦の意図が込められたそれ。 リオンは、ウッドロウの無謀な一途さを恨んだ。 「どうなんだ、リオン。」 「…はい。」 問い詰めに対し、リオンが低く肯定した瞬間、ヒューゴの目が大きく見開かれ、リオンは、恐怖にみぞおちが冷えるような思いをした。 見下ろすヒューゴの瞳が一瞬、光ったような気がした。敵を探し当てたときの猛獣のような目であると思った。 だがヒューゴは、ふん、とさして興味も無さそうに言って、つ、とリオンの身体を離した。 「任務外だな。…無駄な行動は常々慎むようにと言わなかったか、リオン?。」 「……。」 極度の緊張にどうしても頬が強張る。 心臓の音が耳元でうるさく鳴った。 しかしそんな内面を悟らせまいとして、リオンは俯き加減になって、長い前髪で表情を隠した。 ヒューゴが返答の言葉を促すように、またあの観察するような視線で見下ろしてきた。リオンは冷静さを装いながら、唇をきゅ、と真横に引いた。けれど内心 は、全 身が冷や汗にまみれるような思いだった。 リオンは必死で言葉を探した。 要領が良くて、抽象的で当たり障りが無い言葉。 しかし今、このヒューゴを騙し通せるような言葉を、自分は持っているのかと思った。 とても無理だと思った。 けれどそう思いながらも、リオンは必死になって、この眼前で自分を見下ろすヒューゴに、事態を伝え、しかもはぐらかすことのできる言葉を何とか口にしな ければならない、と思った。 例えば、昨夜の行為が一夜の情事なのだとしたら、嘘をつくことは容易いだろうと思った。 たった一夜の気まぐれならば、そこには深刻な感傷など存在しえないからだ。 そしてそれ以降、何も期待しなくてよいからこそ、嘘を押し通すこともできる。 けれど、これから先、一体どこまで続き、どこに行き着くのかも分からないウッドロウとの関係を、隠し続けるとなると、話は別だった。 一つの嘘を隠すためには、また新たな嘘が必要になるだろう。このヒューゴを相手にして嘘をつき続ければ、いずれボロが露呈する。そして何もかもが明らか にされたとき、恐ろしい結末が待っているだろう。 リオンは小さく息をのんだ。 「少々、任務の負担が大きくて、精神的に昂ぶっておりました。」 「…だから、欲しくなったと?。」 「…そうです。」 ヒューゴはうっそりと哂った。 「ふん、淫乱だな。」 「…。」 さも当然かのように吐きかけられる侮辱の言葉の棘がリオンの胸を鈍く刺し、リオンは伏目がちに固く口を閉ざした。 けれどこれ以上、何も言い募ることはできなかった。例えば条件反射的に「申し訳ありません。」とでも言えば、その途端、目の前の、途方も無い威圧感を発 している男に、全てが露呈してしまうに違いないとリオンは思った。 けれど間違いなく気づいているだろうとは思った。 夕べ抱き合ったのがウッドロウであるということをヒューゴが気づかないはずはないと思った。何か言われるか、と思ったが、ヒューゴはそれ以上、何も言わ なかった。 何も言わないまま、ヒューゴは、やや憮然として、リオンの身体にまるで品物を見るときのような視線を走らせ、そのまま、またテラスの窓の前まで歩いてい き、リオンに背を向けた。 広すぎる室内で、二人の間を重苦しい沈黙が隔てた。 窓の外では、風が強く吹き、屋敷の周囲に植えられている木々の梢が風によって噛み合わさるざわざわという音が室内に低く響いた。 リオンは先程まで、ひどい緊張のために全身に冷や汗をかいていたが、今は、それがたちまちに引いてしまい、室内に効かせた空調のため、ひどく寒く感じ た。 室内に充満する沈黙に、たまらない焦燥感を覚え、それがリオンの足元から影のように纏わりついた。 ふいにヒューゴが沈黙を破った。 「リオン。ファンダリアをどう思う。」 唐突に問われ、リオンは顔を上げた。 抽象的な質問であったが、話題が逸れたようで、リオンは、少しだけ安堵した。 「…レンズ事業の取引相手として上客であると思います。取引量が多く、価格も比較的高値で安定しています。治安もよく、流通の手際も申し分ありません。」 相応の言葉を選んだ。今回の任務はオベロン社のレンズ事業の関連であったのだから、この返答が適切であると思われた。 「このセインガルドに対しては、どうであると思う。」 この質問には、リオンは言葉を詰まらせた。 『セインガルド』。それは今やヒューゴそのものであると言えた。すなわち、ヒューゴの本音を探れば、ファンダリアに象徴される『何か』が、『セインガル ド』に象徴される『ヒューゴ』にどうであるか、と聞いているのであろう。 ただ、このような憶測で何かを口にするのは、みすみすヒューゴの張った罠にかかるようなものだと思った。 一つの答えはまた新たな質問を呼ぶだろう。 可能な限り事務的で形式的で、かつ適切な言葉を返し、一言でこの質問を完結させなければならない。 しかも内面を決して気取られないようにしなければならなかった。 「…資源が豊富で科学技術も高く、安定した治世をもつ豊かな国ではありますが、我がセインガルドに比較すれば、明らかに弱小。…ヒューゴ様がお気にかける ほどのこともありません。」 リオンのその言葉に、ちらりとこちらを振り返ったヒューゴの唇の端に、本物とも作り物とも取れるような、捕らえどころの無い笑みが浮かぶのを見た。 けれどその、どこか勝ち誇ったような雰囲気を湛えた笑みを見たとき、リオンの胸の奥底に、得体の知れない衝動が生まれた。 リオンは、先程の自分の言葉を反芻した。 『我がセインガルドに比較すれば、』 『…弱小。』 『…お気にかけるほどのことも…。』 そして、頭の中でその、自分が発した言葉を繰り返せば繰り返すほど、たった今自分が、ウッドロウはヒューゴにとって、相手にもならない。取るに足らな い。だから見逃してほしい、どうか見逃してくれ、赦してくれ。そう懇願したように思えてきた。 とてつもなく弱い己の本音を晒してしまったようで、リオンは、左胸のあたりに、たまらないうずくような感覚を覚えた。 膝が震えてきた。 床が揺れるような錯覚に、その場でくずれてしまいそうだった。 視界が撓み、眼前のヒューゴの姿が、まるで現実感の伴わない映像のようにすら思えてきた。 リオンは左右の拳を握り締め、何とか自分の身体を支え持ちこたえようとしたが、もう長くは続きそうもなかった。 そんなリオンの心情を察したのか、ヒューゴがまた、ふっと哂った。 「下がっていい。ゆっくり休むがいい。」 今日のところは、と言外に言われたような気になる。 「失礼します。」 やっとそう言って一礼をして、リオンはくるりと踵を返して扉に向かった。 けれど扉の取っ手に手をかけたところで、背後でヒューゴの気配が動いた。 「リオン。」 「…はい。」 「あの男のことだがな。」 その言葉に心臓に氷の楔が打ち込まれたかのようだった。 あの男。聞くまでもなかった。 リオンは、その場で凍りついたように動けなくなり、ヒューゴの方を振り返ることなく、絶望的な気分になりながら次の言葉を待った。 鼓動を繰り返す心臓の音が咽元までせり上がってくるようだった。 まるで刑の宣告を待つ罪人のようだと思った。 二人を隔てた空間のみが重く存在し、外界と遮断され、時が止まり、一切が白くなった。 その数秒。そこには祈りすら無かった。あるのは限りなく諦めに近い恐怖だけだった。 「もう少し、泳がせておけ。…が、妙な動きがあったらすぐに報告しろ。」 「…。」 ヒューゴの言葉に、リオンはゆっくりと振り返った。 ヒューゴは唇の端に薄く笑みを浮かべていた。恐ろしい人工的な感じのする笑みだった。 言葉が出なかった。 赦された。見逃されたのだ。今の時点においては。 全身から力が失われていくようだった。 夕べ、リオンと寝たのはウッドロウであったことも、間違いなくヒューゴは気付いている。 いつからこの関係が始まったのかも、リオンの肌につけた印にどのような意図が込められているのかも、ヒューゴに全部見抜かれているだろう。 では何故、ヒューゴは見逃すのか。 混乱を無理に抑えて考えをめぐらせば、ヒューゴの判断は、実は恐ろしく合理であった。 例えば、リオンと個人的な関係を深めた相手であるフィンレイ将軍を殺すよう命令したのは、フィンレイ将軍が王家の親戚になり、セインガルド国家へ与える 影響力が無視できなくなってきたこと。それと同時に、リオンの直属の上司であり、剣の師であったがために、リオンにとって、理解者、そして最上の相談相手 となりつつあり、リオンが事実上、手駒として腑抜けになりかけていたからだった。 こう考えれば、ヒューゴにとって、ウッドロウはまさに相手にならない一人の若造。いつでも潰せる。いつでも殺せるのだと、言外に言われたのだ。 そして、リオン自身に対するウッドロウの影響も、ヒューゴの目的を妨げる程度にすら達していないと判断した、そして、リオンは絶対にヒューゴ側の陣営か ら離れられないのだということを、今まさに、リオンに宣告したのだ。 ヒューゴの私室の外の廊下には深い夜の静けさが満ちていた。 沈み込むような暗さを湛え、あたかも霧のように柔らかく、それでいて獰猛な闇が屋敷中を充満しているようだった。 重厚な樫の扉を背にし、リオンはしばし廊下に立ち竦んでいた。 その肩と腕には、いつまでもヒューゴに掴まれたときの余韻が残されていた。 吸われた唇も、いまだ痺れを残していた。 それは魔法のようにリオンの身体に刻み込まれ、それがリオンを支配しつづけるもの、そのものであると思った。 |
2004 0326 RUI TSUKADA |
王子、とりあえずセーフ。 いくらリオンが好きだからって、王子も無謀やってないで、坊の気持ち察してやれ…。 ヒューゴとリオンの関係って倒錯してるし、一方的でキチクだけど、関係がすごく密だと思う。 普通、親子でもここまで関われないよね。 リオンの産毛の一本一本までもメンテしてそうだもんなぁ。 近年の日本においては、息子と父親の関係なんて希薄で他人も同然なところが多いっていうのに、ここはあらゆる意味において特殊だと思う(笑)。 ま、それこそが、私のヒューリオの原点なんだけどな!。 次回『王子と剣士(7)』 ヒューゴ×リオン。ひさびさ絡み。 いよいよ終盤が見えてきたよ。 |