『執着』 〜王子と剣士(5)〜




 最近になってのことであるが、リオンは日に一度、必ず、ヒューゴに何かしらの手段で、一日の報告をすることを義務付けられていた。
 リオンがダリルシェイドに居て、王宮でその任務についているときには、ヒューゴは必ず夜にリオンを部屋に呼び、一日の報告をさせていたが、そうでないと き、例えば、ヒューゴにより命令された任務で、ダリルシェイドを離れた地に居るときであっても、必ず、一日にあったことを書簡に記して、ヒューゴのもとま で送るようにすることが日課とされていた。
 これは、少し前までは無かった習慣である。
 以前までは、ヒューゴへの報告は、重要な判断を仰ぐようなときや、無事に任務を完遂した後など、特に必要なときだけに限られ、さして重要でもない、例え ば日々の任務の経過まで報告するようなことは要求されていなかった。
 この習慣がいつから始まったかと考えれば、リオンにははっきりとした心当たりがあった。
 それは、リオンがファンダリアの第一王子と知り合い、彼がダリルシェイドの屋敷に来た日以来であった。




 ##

 リオンは、ハイデルベルグ城の賓客用の部屋で、ふと、窓の外の景色を見た。
 今朝早くにこの街に到着したときからずっと降り続いている雪は、夜になっても止む気配はなく、むしろますます強くなってきたように思う。
 闇色の空から音もなく降り続け、城壁や、周囲の石造りの建物の屋根に重く積もった雪を見れば、暖房を充分に効かせたはずの室内であっても、凍るような外 気が二重にしたガラスの窓を通して染みとおってくるようであった。
 リオンがファンダリアに来ているのは、ヒューゴに請け負ったオベロン社の任務のためであった。
 ファンダリア国は、政府自身がオベロン社とレンズの取引を持っている大口の顧客である。
 この日リオンは、総帥ヒューゴの代理として、ハイデルベルグに新たな支店を設けることに関して、それに伴う流通経路の整備と代理店人事の最終決定の確認 を行い、正式契約の書簡に、ファンダリア国王自らのサインを貰うべく、ここまで来たのだった。

 その夜リオンは、用意された部屋で、いつものようにヒューゴに宛てた書簡をしたためていた。
 今日はオベロン社ハイデルベルグ代理店の代表者になる者と会って、事業の段取りの最終確認を行ったこと、本部、すなわちダリルシェイド本社への利益還元 についての契約内容に変更は無かったこと、レンズ運搬の手配、流通経路の確認を行ったこと。それと、ファンダリア国王への謁見もつつがなく済み、調印も滞 りなく行われたこと。それらを丁寧に順序良く過不足なく、そして事務的にしたためた。
 ここまで書いてしまうと、もう書くことは無くなる。
 無駄を嫌い、事実のみを重視し、抑揚を極力省略したがるヒューゴの性格を考えれば、これ以上、何を書くことも無駄に思えた。
 こんなふうな内容の書簡を毎日書かされていること、それは、最近特にオベロン社のレンズ事業そのものに関する任務を請け負うことが多くなったから、その 仕事の進行具合を厳しく管理するためなのであろうと思う。
 毎日のことであるので、少々手間ではあったが、内容は極めて事務的なものなので、精神的な負担は少ない。
 今日みたいに多くのことがあった日はむしろ特別で、いつもならその報告も数行で済んだ。
 こんなふうにダリルシェイドを離れてしまえば、抑揚を極力省かれた、ある意味、機械的に文言が並ぶ書簡、それだけがリオンとヒューゴを繋ぐ唯一のものに なる。
 けれどこれは、別の見方をすれば、ヒューゴがリオンのことを、それこそ毎日のように、気にかけ、関心を払い、忘れずにいるという証でもあった。
 リオンは周囲の人間を一切、信用しないようにしており、またそうなるべくヒューゴに教育されていたから、私的な付き合いは皆無であると言っていい。
 感情に振り回されるようなことを徹底的に排除されている、そんなリオンにとって、たとえどんな形であれ、自分に常に関心を持ち続け、気にかけている人間 が居るのだということを考えれば、それはそれで奇妙な感覚だった。
 ヒューゴが弱冠16歳のリオンに強いた立場や、下される数々の任務を思えば、リオンとヒューゴの関係は、親子としても人としても、決して好ましいものと は言えない。
 けれどこんなふうにリオンに常に注意を払い、行動を監視し、束縛し続けること、それは、主であり、実の親であるヒューゴにしかできないことに違いはな かった。

 リオンが書簡の最後に、自分のサインを書き入れようとしたときである。
 部屋の扉の方で、ノックの音が二回、響いた。
「リオン、私だ。」
 ウッドロウの声だった。
 リオンはペンを走らせていた手を止め、扉の方に歩いていき、ドア・チェーンをしたまま、扉を開けた。
「…何だ、お前か。」
 扉の外の廊下に長身の男が立っていた。
 相変わらず無愛想なリオンに苦笑しながら、ウッドロウは、悪戯っぽく、ドア・チェーンを、ちょんちょんと指差しながら、「部屋に入れてくれないか?。」 と言った。
 リオンはもうじき深夜になろうと言うのに、おそらく護衛の兵を要領良く言いくるめてきたのであろうが、王族の私室のある別棟からここまで来た気安いウッ ドロウを軽く睨みながら、チェーンを外して部屋に入れた。
 リオンは部屋に入ったウッドロウにソファーをすすめたが、ウッドロウはくるりと室内を見渡すなり、部屋の隅にある備え付けのデスクの方に目を留めた。
 デスクは先程まで、リオンが書簡をしたためていたままの状態になっているので、上に書簡が広げられ、ライトもつけっ放しになっていた。
 ウッドロウはデスクの上の、書きかけの書簡を少し見て、
「これはヒューゴ殿への手紙かい…?。」と言った。
 その遠慮の無さに少し閉口しながら、リオンは、いや、と言って小さく首を振った。
 そして「任務の報告だ。」と言い、それから「ヒューゴ様は仕事に厳しい方だから、可能な限り早く、ご自分の事業に関する報告を受け取りたいのさ。」と、 付け加えた。
 「そう。」とだけ言って、ウッドロウは、それ以上、書簡を見るのをやめた。
 それきりウッドロウは黙ってしまって、先程リオンにすすめられたソファーの方に歩いていった。
 そんなウッドロウの態度に、リオンは、ふと奇妙な違和感を覚えた。
 その後姿に観察の視線を向けてみれば、一見して、何か不機嫌な様子が伺える。
 リオンにとって、ウッドロウは、自分をことさら貴婦人か何かのように扱う、嘘偽りのない誠実な男だった。
 初めて会ったときから、ウッドロウはいかにも育ちの良い、世間知らずでお人好しの青年だった。
 それなのに、今日のウッドロウは、そんな最初の印象からだいぶ雰囲気を変えていた。
 以前は嫌味なほどに、全身に『純粋培養』といった雰囲気を纏っていたのに、今は少なくともそんな印象はきれいに削ぎ落とされている。
 良く言えば、逞しくなった、悪く言えば、すれた、といった感じか。
 ファンダリア政府が慎重に進めていた同盟がらみの、アクアヴェイルの姫との政略結婚の話が立ち消えになってから、正真正銘、ウッドロウは身軽な独身と なった。
 皇太子自らがこの結婚を、ひいては同盟を台無しにするようなことをしたので、そのときのファンダリア政府の混乱は相当なものであった。
 そして『仲裁』の名のもとに、両国の間に入り込んだセインガルドによってファンダリアの立場は悪化し、外交は難航を余儀なくされた。
 最悪の事態である戦争は、外交の努力によって何とか回避されたが、それ以来、両国の関係は間違いなく悪化し、実際に交易は必要最低限のものを残してかな りの部分が滞っている。
 自ら原因を作ったとは言え、ウッドロウは、しばらく憂鬱な日々を過ごさねばならなかったことにうんざりしたのか、結婚により、ある意味国に閉じ込められ るような身になるのが嫌になったのか、それとも最近宣言していた『この世のあらゆる贅沢を味わい尽くす』という放蕩三昧な生活が板についたせいなのか、ど うやらしばらく結婚はしない、とまわりに宣言しているとの情報を受けていた。
 しかもその情報には、『ファンダリアの第一王子は金遣いが荒く、女好きで、手が早い。』という、よからぬ噂まで付いてまわっているようであった。
 おそらくそれは、ファンダリアの重臣たちがアクアヴェイルのティベリウス王の怒りを鎮めるために用いた苦し紛れの外交戦略の名残なのであろうが、どうや らウッドロウは国際的にも、『品行方正な王子』という、肩書きを失っている状態のようだった。
 それからウッドロウは、以前、ダリルシェイドの屋敷に来たとき、ヒューゴとかなり険悪になったことがあった。
 そのことについて、ヒューゴの方は完全に無視を決め込んでおり、一切顔に出さず、リオンにも何も言おうとも聞こうともしない。
 それはおそらく、ヒューゴにとって、セインガルドに比較して明らかに国力の劣るファンダリアの、未だ政治上何ら実権を持たない皇太子であるウッドロウ は、結局のところ、対セインガルドの政治上の影響にしても、オベロン社の事業に対する影響にしても、取るに足らない一人の若造に過ぎないからであるに違い ないとリオンは踏んでいた。
 けれど、ウッドロウの方は違ったのかもしれない。
 武芸としてしか闘うことを知らず、喧嘩どころか、本気で人と争ったことがあるのかどうかも疑問のくせに、おそらく生まれて初めて向けられた侮蔑と悪意に 我を失い、初対面の席で、あのヒューゴを殴ったのである。
 ヒューゴはともかく、ウッドロウは、あのときのことを未だ苦々しく記憶し続けているのかもしれなかった。
 リオンは、やや憮然とした表情でソファーに座るウッドロウを視界の端に捕らえながら、部屋に備え付けてあるティーセットで簡単に紅茶を淹れると、ウッド ロウに差し出し、正面に黙って座った。
 ウッドロウは紅茶を一口含むと、おもむろに切り出した。
「リオン、…さっき君が書いていた書簡のことだけど、私に一言書き添えさせてもらえないか?。」
 突然の言葉にリオンは眉をしかめた。
 ウッドロウはなおも続けた。
「…ファンダリア国軍にしかるべきポストを用意されました。リオン・マグナスは、セインガルド国近衛軍客員剣士、及びオベロン社総帥直属剣士を辞し、ジル クリフト邸を出、以後、ファンダリア国民になります。…って書くんだ。」
 平然と告げられたウッドロウのその言葉に、リオンは、呆気に取られて絶句した。
「駄目かな…。」
 と、ウッドロウは聞いた。
「…駄目も何も、お前は突然、何を言い出すんだ。」
 リオンはあきれながらも、どこかうろたえて言った。よもやあのヒューゴ相手に、このようなことを真顔で言い出す男がいるとは思ってもみなかった。
「ここはいい国だよ。」
 ウッドロウは、口元に、例の優雅で優しげな微笑みを浮かべて言った。
「…豊かで、穏やかで、治安が良くて。…君にふさわしい地位、それに君にふさわしい家も生活も。全て私が保証するよ。そうすれば私は毎日君に会うことがで きる。君につらい思いや、不自由な思いは一切させない。約束するよ。」
 そう、きっぱりと言い切るウッドロウを前にして、リオンは、ふいにこれまでに覚えのない感情の渦が押し寄せてきて、頭が混乱するのを感じた。
 言葉を失ったように黙り込んだリオンに、ウッドロウは、す、と手を伸ばし、その手をことさら丁寧にとって、そこに唇を寄せた。
 そして例の、通常貴婦人に対してする、うやうやしい礼をもって手の甲にキスをした。
 ゆっくりと顔を上げたウッドロウをリオンは見た。
 その上目遣いに自分を見据えるウッドロウの顔。長めに伸ばした銀髪は、不揃いに額と頬にかかっており、褐色の肌は部屋の淡い光を浴び、まなざしは上流階 級の青年らしい自侭さを湛え、申し分の無い品格と美しさを備えた王子の顔がそこにあった。
 そして間近のウッドロウからは、愛用しているコロンなのか、上品な甘い香りが、ふわりと匂い立った。
 リオンは我に返ったように小さく首を振り、
「…唐突だな、お前。新手の口説き文句を僕で試そうという訳か。それとも酔っ払いの冗談か。…紅茶じゃなくて、コーヒーにした方が良かったか?。」
 そう言って立ち上がった。
 ウッドロウは答えなかった。
「こっちは寒いな。…だが僕には酒を飲む習慣がないからな、お前の酒飲み話には付き合えないぞ。…だが、コーヒーなら付き合ってやってもいい。」
 そう言ってリオンはウッドロウに背を向けて、ポットの置いてあるところまで歩いて行こうとした。
 リオンは背後にウッドロウの視線を感じていた。
 何か決意を秘めたような、刺すように強い視線であると思った。けれど先程のウッドロウの言葉の真意を確かめるわけにはいかず、可能な限り冷静に無視して やりすごしたかったが、振り向くのは気が重かった。
「…今回の使いに君が来たのは意外だったよ。セインガルド王宮の仕事じゃなくて、オベロン社の方の任務なんだろう?。…何と言っても私はヒューゴ殿に嫌わ れているだろうからね。まあ、あのときと違ってヒューゴ殿抜きで君に会えるんだから、どうでもいいし、ヒューゴ殿のご機嫌など、私の知ったことじゃないけ どね。」
 リオンは、あからさまに棘を含んだその言葉に、ちらりとウッドロウを睨んで、コーヒーメーカーのスイッチを入れた。
「…何を言っているんだ。お前は。」
 リオンはそう言って、軽くあしらうように、唇の端に笑みを作った。
 そして揃えて並べた小さめのコーヒーカップに出来上がったコーヒーを注ぎ入れた。
 注ぎ終えると、そのうちの一つをウッドロウの前に差し出した。
 ウッドロウは、差し出されたコーヒーを見たが、それには手をつけようとせず、また、リオンの方をまるで睨むかのように見つめてきた。
 リオンは、とりあえずウッドロウの視線を無視して、自分のコーヒーカップを手に取り、カップの縁に唇をつけた。
「昨日は、ヒューゴ殿に抱かれたの?。」
「…!。」
 その言葉にリオンの表情が一瞬にして凍りついた。
「ヒューゴ殿は、君を好きにする権利をもっているんだろう。」
 リオンは手にしていたコーヒーカップをソーサーに戻し、思わず眼を背けた。
 陶器がぶつかるカチャンという音がやけに乱暴に聞こえた。
「…お前には関係のないことだ。」
 思わず、きつい口調で言い捨てたリオンを意にも介さず、ウッドロウはさらに言い募った。
「そんなふうに、親代わりに君を育てたことの恩を売られて、行動を全て仕切られて、やることなすこと監視されて、将来を制約されて、…セックスの道具にさ れて、君は何とも思わないの。」
 思いも寄らぬ相手から向けられたその言葉の強烈さに唖然としながら、ふいに理不尽な怒りがリオンの中で湧き上がってきた。
 そして、その怒りは次第に呼吸困難も引き起こすようで、リオンは唇を噛み締めて正面のウッドロウを睨みつけた。
「お前、…それ以上言うと、許さない。」
 ウッドロウは、そんなリオンを見つめる瞳の強さを少しも加減することなく、少し前かがみになって、上目遣いにリオンを見つめた。
「…私は君のことが好きだ。君と出会って以来、考えることと言えば、君のことばかりだ。」
 そしてウッドロウは、囁くような低い声で付け加えた。
「…君をヒューゴ殿から奪いたい。」
 そのとき、リオンは、ウッドロウの瞳の中に、空恐ろしい一途さのようなものを見た。
 言葉自体は、感情ばかりが先走った大げさなものであったが、こちらを見据えるその瞳の奥には、どこか有無を言わせぬ強烈な真剣さがあった。そして、リオ ンはその刺すような視線の真剣さに息苦しさでたまらない思いをした。
「…ふざけるな…。」
 声が弱々しいと自分でも思った。語尾はかすれて消えかかっていた。反論の言葉が頭の中を反芻したが、ついに口に出すこともできなかった。
「私はふざけてなんかいない。本気だ。本気でヒューゴ殿に立ち向かうと、そう言っているんだ。」
「…!。」
 その言葉にリオンは血の気が引くほど腹を立てた。一体、何様のつもりだというのだ。
「簡単に言うな!。前にも言っただろう、お前はヒューゴ様を甘く見すぎていると!。ヒューゴ様は一企業の総帥なだけじゃないんだ。むしろセインガルドその ものだと思っていい。あの男を怒らせて見ろ。お前の首を差し出してもまだ収まらないぞ。お前は皇太子でありながら、ファンダリアを破滅させたいのか。…も しもそうなったら、もう誰にも止められないんだ。…僕でもだ!。」
「ヒューゴ殿は、そうやって力で君をねじふせて抑圧している。けど私はそんなことはしない。君を大切にして君という人間を尊重できる。怖がってるだけ じゃ、何も変わらない!。君は私が守ってみせる!。」
 そう食い下がるウッドロウの必死さに、リオンはどうしようもなく動揺した。
 しかしリオンはその内面の動揺を無理に押し隠し、その表情に、いつもの能面のような冷静さを装ってみせた。
「…ふ、温室育ちの世間知らずの若造のくせに。お前に一体僕の何がわかると言うんだ。ちょっとそのへんを遊び歩いたくらいで聞いたふうな口を叩くな。お前 がここの王子でなかったら、今すぐそこの剣で斬り捨てているところだ。」
「君こそ何も分かっていない。ヒューゴ殿は君を愛しているんじゃない。あんなの愛であるはずがない。親代わりの立場にあることを利用して君を拘束している だけだ。人を愛したり、愛されたりするってことが本当はどういうことなのか、きっと君は知らずに育ったんだ。君はかわいそうな人だね。私が教えてあげる よ。…愛っていうのは、」
 ふと、言葉が途切れた。
 リオンは首を左右に振って俯き、必死にその唇に酷薄な笑みを剥いて見せた。
 そして無理に、くく、という笑い声を咽から押し出した。
「…お前、さっきから色々と御託を並べているようだが、結局のところ僕を抱きに来たんだろう。…いいさ、かまわないさ。今回の任務に入っていないけど、そ れぐらいどうと言うことはない。それでお前が満足するなら、…いくらでも好きにすればいいさ。」
 自分で言いながら、ひどく空々しいセリフだと思った。まるで安っぽい芝居の中で、自棄になった惨めな女が言うような言葉に似ていると思った。
 けれど眼前のウッドロウはひどいショックを受けたようにリオンを見つめていた。
 窓の外では一層風が強くなったようだった。
 城の外壁の側に植えられた針葉の樹木が、時折の強風に煽られて雪を振り落とす乾いた音がした。
 部屋の空気が一層冷たくなったように感じた。
 けれどそれは外気の凍りつくような寒さのためではない。まるで鋭利なナイフの刃先で肌を切られているような、ピリピリと泡立つような寒さだった。
 リオンは、凍りついたように動かないウッドロウをちらりと見やり、すい、と立ち上がって、ゆっくりとウッドロウの目の前に来た。
「…さあ、どうした。」
 す、と睫を伏せるようにして誘い込む視線を巧みにその美貌に作って見せて、唇に妖艶な笑みを浮かべる。
「ああ、裸にならないと、その気にならないか。」
 そう言って、リオンは襟元に手を伸ばした。そしてその指が襟のボタンにかかったとき、ウッドロウは、その手を掴み取り、そのまま強くリオンの身体を引い た。
 リオンはされるがままに、ウッドロウの胸に倒れ込む格好になった。
 そのまま強く抱きしめられた。
「どうした。抱きたいなら抱け。…ヒューゴ様もきっとこうなることはお見通しだろうさ。…勘違いするなよ、ウッドロウ。あんなことをしておいて、お前が無 事で済んでいるのも、お前なんかヒューゴ様の相手にならないからだ。お前も僕も、所詮、ヒューゴ様の掌の上なんだ。」
 そう言いながらも、リオンは、これまでに覚えのないような、突き上げてくるような不可解な感情と戦うために、そして、どうあっても逃れることのできな い、己に敷かれた過酷な現実を見失わないようにするために、目を閉じることすらできなかった。




 ##

「…何故、そんなに哀しい顔をするの。」
 ウッドロウが、シーツに包まったままのリオンを見つめながら言った。
「…私に抱かれることに対して何故、そんなに後ろめたい思いをするの。」
 リオンは唇を噛み締めて固く目を閉じた。
 そうしなければ、何を言っても、ウッドロウをひどく傷つけてしまいそうだった。
「…解ってくれとは言わない。けれど僕はヒューゴ様の所有物なんだ。僕の人生そのものは、ヒューゴ様がとっくの昔に全て奪ってしまったんだ。…もう、どう することもできない。」
 囁くようなリオンの言葉に、ウッドロウは眉を顰めてリオンを見下ろしていた。
「…身体をもてあそんで、力で何もかもねじふせて、そんなヒューゴ殿に何故君は従いつづけるの。」
 リオンはシーツの中から身を起こした。
 寒かった。室内は暖房は効かせてあるはずなのに、一層冷え込んだ外気のせいで吐息が顔にまとわりつくようだった。
 けれどその寒さは室内の気温とか、そういう現実のことが引き起こすのではなく、リオン自身のやり場の無い苛立ちや説明のつかない焦燥感が生み出すもの だった。
「…ヒューゴ様は。」
 リオンは低く囁くような声で言った。
「…ヒューゴ様は、僕の…、」
 ここまで言いかけて、リオンは続く言葉を飲み込んだ。
 主、父親。どちらもピンとこなかった。
 どちらの言葉を当てはめても、ヒューゴは最低であるようにも思え、また、どちらの言葉でも、到底表しきれないものであるようにも思えた。
 夜毎執拗にリオンを抱くヒューゴ。一方的に煽られ嬲られるばかりのその行為。
 けれどこれまでにどんな男に抱かれても、ヒューゴとの行為ほどに強烈な印象を残すものはなかった。
 容易く組み敷いてリオンを見下ろす鳶色の瞳。その中のおそろしいほどに自分を拘束し、動けなくするその正体は、すさまじいまでの執着。
 愛ではない。砂を噛むような寒々しい関係。あれが愛であろうはずがない。
 けれどヒューゴ以上に、リオンに対して真に執着しているものはいないのだ。

 全身から力が失われていくような感じがした。眩暈がした。ウッドロウの顔が霞んだ。

 呆然として言葉もつげず、リオンはウッドロウの前で黙り込んでいた。












2004 0322  RUI TSUKADA



 
リオン、マゾだしww。
 ヒューゴ様の教育の賜物ですな。
 王子は遊び慣れたのか、それなりにワイルドになったようですが、まだまだ〜。
 せっかくのヘッドハンティング(プロポーズ)も空振ったようです。…いい男になるのって難しいねえ。

 それにしてもリオンは難攻不落。身持ちはいい方じゃない(つうかむしろ悪い)ので寝るのはわりと簡単だけど、完全に落とすのは至難だね。
 
 さて、第5話が終わって折り返し地点に来たよ。
 私の妄想に付き合ってくれている方、ありがとう!。


 次回『王子と剣士(6)』
 パパの恐怖…、王子は第2のフィンレイになってしまうのか?!。