『白い薔薇』  〜王子と剣士(2)〜




 
ダリルシェイドの街についてしまえば、『彼』の家がどこにあるかを知らない者はいなかった。そして彼に向けられ た言葉はどれも賛美であり、彼の出自 は由緒正しく、かつ彼個人としても、この大都市の中において名の通った実力者であることが伺えた。

 ウッドロウは、今、両手にいっぱいの白い薔薇の花束を抱えて、伴もつれずに一人でやってきたダリルシェイドの一角の、ジルクリフト邸のポーチ前をかれこ れ半時は、うろつきまわっていた。
 ずっと彼のことを考えていた。
 ずっとというのは、ハイデルベルグを出てから、と言うのではなく、あの晩からずっと、という意味である。
 それこそ暇さえあれば彼のことを考えていたと、そう思った。
 彼のことを、まるで焦がれるように考えれば、日常生活もどこかおろそかになりがちだった。
 公務すらも手につかない切なさを生まれて初めて味わった。
 そして今、まるで初めてデートの誘いをする少年のように、そわそわしている自分が信じられなかった。
 事実、こんなふうに人を訪ねるのは初めてのことだった。

 ファンダリアの第一王子として、何不自由なく育てられた。
 それこそ生れ落ちたときから周囲の者誰もが頭を下げてくるような環境が用意されていたし、名乗りさえすれば、誰も彼もが皆、恐縮し、その身分に与えられ る特別の扱いを受けてきた。
 そしてそれは女性に対しても同じようなものであったと思う。
 婚姻こそ国が決めることであって、自由にはなりはしないが、それはそれで諦めていた。
 自分の人生は生れたときから自分個人のものではなく、国家のものであり、『彼』が以前言った通り、それが王族として生まれた者の定めなのだ。
 結婚は、自分個人の生涯の伴侶を得るためでなく、王家の格式を踏まえ、国民に納得してもらえ、しかも後継ぎのことを含めてファンダリアを栄えさせるため でなくてはならない。
 けれど、人並みに恋をすることについては、寛大にされていた。
 相手にした女性たちは、皆、美しく聡明で、自分の方から近づいてきて、そして自分から去っていくような女性たちばかりだった。
 ウッドロウの方から誘った女性もいたが、とりあえず相手をうなずかせ、色よい返事をもらうことに苦労した覚えはない。
 誰もが麗らかな陽射し中で出会い、何となく愛し合って、互いに傷をつけることなく終わりがやってくる。
 そんな戯れのようなものが恋愛であると、そう周囲の環境に教えられてきた。
 まるで小さな別荘でも持つかのように恋人を作ることを愉しんできたし、誰ひとりとしてそれに文句をつける者も居なかった。
 もちろん、王子という立場上、くれぐれも面倒なことにはならないようにとは厳しく言われていたし、当然、真剣な恋に身を焦がすようなことは、有り得な かった。
 例えば崩壊しかけた夫婦の夫人と恋に落ち、王室が訴えられたりするようなことが無いように、必要な注意は払っていたし、またそうするべく相手を選ぶ余裕 もあった。
 危ない恋の冒険をしない。
 行き過ぎた感情の末の愁嘆場など真っ平だ。
 必死になって、恋に溺れ込むような気持ちと、それまで築いてきた楼閣を崩すまいとする気持ちとは、もとより相反するものである。
 だから一度会っただけで忘れられないなんて、そんなことが現実にあるとは思っていなかった。
 ろくに相手のことも知らずにいて、それまで積み上げてきたものをかなぐり捨ててでも、この瞬間に全てを賭けたい、などと思うことがあるだろうか。
 けれどあのとき、ハイデルベルグ城でたった一度だけ夜を共にした少年と出会って以来、これまで敷いてきたレールの上を歩くことを簡単に捨て去れたのだ。
 魔が差したのではない。目と目を交わした瞬間、これまで避け続けてきた世界に、自ら足を踏み入れたのだ。恋という言葉があまりにも鮮烈で甘美なもので あったことを実感をもって知ったのだ。

 かれこれあれから一月過ぎた。
 国が注意深く進めて来た、いわば敵国のようなアクアヴェイルの姫との政略結婚を自ら破談にしたのであるから、この一月はウッドロウにとって散々だった。
 『散々だった。』の一言で片付けるとは、これは第一王子としての自覚を問われても仕方ない。それほどまでに重臣たちの心痛は大変なものであり、アクア ヴェイルのティベリウス王を取り成す外交は難航したのだ。
 にもかかわらず、最悪の事態としての戦争を回避するための、国家間交渉において、原因を作った当事者であるウッドロウは完全に蚊帳の外だった。
 ファンダリアの重臣たちは、未だ学問としての政治しか知らない若い王子をティベリウス王との交渉の場に引き出すことに難色を示したのである。
 下手に誠意を尽くして外交の矢面に世間知らずな王子を立たせるよりも、むしろ若さゆえの軽率な行動だったとでも思ってもらう形にした方が、ファンダリア の重臣たちにとっては都合が良かったのである。
 要はどんな形であれ、ティベリウス王の怒りの矛先をかわせれば、自分達の首が繋がる、と言ったところであった。
 しかしそんな重臣達の思惑よりも何よりも、幼少から我が子のように面倒を見てくれた老侍従には本当に迷惑をかけてしまったとウッドロウは思った。
 すっかり歳を取った侍従官は、涙を流して王子の放蕩を嘆き、国王に取り成してくれた。
 政略結婚の人質にされる他国の幼い姫を守るためのことだったとは言え、一月で10歳も老けたような侍従官の顔を見るとさすがに心が痛み、気が咎める。
 そして、そんな憂鬱な日々に押し流されるようにして、あれこそは一夜の夢だったのだと思い込むだけの余裕も出来てきたというのに、喧騒が収まれば、ぽっ かりと空いた心の空白を埋めるようにして、今になってあのときの時の流れを永遠に止めたかのような、美しい姿が鮮やかな原色のきらめきをもってなだれ込ん できたのだ。


 ウッドロウは明るめのグレーのスーツをもう一度点検するようにして身なりを整えると、すっと息を吸い込んで、ジルクリフト邸の重厚な扉を叩いた。
 屋敷の入り口で丁寧に案内を請い、それを受けて、邸内へと続く扉は開かれた。
 邸内に入ると、主人の趣味なのか、重厚な感じの内装が施されたエントランスが広がっていた。
 すぐに執事らしい男が出迎え、ウッドロウに対して丁寧に礼をした。
「ただいまリオン様は、旦那様とともに応接室にいらっしゃいます。」
「…先客がおいでだったのか。」
「はい。旦那様の事業のご関係の方です。リオン様でしたらお呼びできるかと思いますが。」
「…そうか。ありがとう。では私も少し、待たせてもらっていいだろうか。」
「承知しました。ではこちらへ。」
 通された客間のソファーで彼を待っていると、数分もしないうちに扉の向こうの廊下に人の気配がした。
 次いでやや荒っぽく扉が開かれる。
 そしてそこには確かにこの一月、その姿を思わない日が無かったと言っていい、リオンが立っていた。
「リオン!。私を覚えているかい。」
 ウッドロウは再会の悦びにいたく感動してリオンの姿を見て思わずソファーから立ち上がった。
「お前…、ウッドロウ。」
 今日のリオンは青い軍服を着ていた。
 あの初めて彼を抱きしめた夜、彼はやわらかなブルーのブラウスに身をつつみ、少年とは思えぬ色香を醸し出していたが、今日の軍服姿もこれはこれでひどく 禁欲的で、それがまた彼の知らない内面を表しているようで、ウッドロウはその姿に素直に見とれていた。
「覚えていてくれてうれしいよ。…あのときは、ちゃんと礼も言えなくて、それだけがずっと気懸かりだったんだ。だが、こうして私はまた自由の身になったん でね。今日はここに君に会いに来たんだ。…そうだ。これを。」
 そう言ってウッドロウは、その両手いっぱいの白い薔薇の花束を実に優雅な仕草で手渡した。
「…これ、僕にか…?。」
「ああ、本当に感謝している。ほんの気持ちだ。」
 リオンは思わず差し出されたその、両手にあまる白い花束を受け取ってしまったものの、怪訝な顔をして花とウッドロウとを見比べた。
「…お前、一体、何を考えてるんだ。」
 男の自分に薔薇の花束。
 しかも突然訪ねて来たのは、以前、ファンダリアを政治上の窮地に追い込むべく、政略結婚をぶち壊すために近づいたターゲットの男である。
「似合うよ。とっても。」
 自分の置かれていた立場がどれほど危険なものであったか判っていないのか、ウッドロウは、やはりその生来の美貌に優雅な微笑みを湛えていた。
「……。」
 複雑な顔をして両手一杯の白い花をじっと見ているリオンに、ウッドロウがまたたたみかける。
「その薔薇、品種改良で新しく作られたばかりのものだから、まだ名前が無いんだ。…君の名前をつけてもいいかい…?。」
「ば、馬鹿ッ…。」
 この男と居ると本当にペースが狂う。
 一方的に女扱いされているような気もするが、それがあんまり丁寧で、それでいて明るくて、ろくでもなく軽いくせに、品格も真摯さも備えていて。
 まんざら悪い気もしていない自分を自覚すると何だか混乱する。
 悪態をつきながらもとりあえず受け取ってもらえたことに満足したウッドロウは、メイドが丁度二人分のお茶を運んできたこともあって、リオンとともにソ ファーに座った。
 立ち昇る茶葉の香りを楽しみながら、ウッドロウは繊細な造りの陶器のティーカップの紅茶を一口含んだ。
「…あれから君のことばかり考えてた。」
「…え?。」
 どこか呆気に取られたような表情でじっと見つめられ、ウッドロウは、その顔の年齢相応の幼さに思わず感動すら覚えた。
 あの夜の妖艶さを思えば、今の彼はまるで別人だ。この不安定な危うさこそがこの彼の何にもまして自分を惹き付けてやまない魅力であるのだな。
 この彼を自分のものにしてしまいたい。またあの夜の妖艶な姿を見てみたい。
 ウッドロウは、唇に愛想の良い優雅な笑みを湛えてリオンに向き合った。
「今日は、王宮の仕事の方はいいのかい?。」
 ウッドロウがそうリオンに尋ねたそのときである。
 突然、部屋の入り口の扉が開いた。二人は同時に扉の方を向いた。そこには、執事と共にヒューゴが立っていた。
 ウッドロウは突然の来訪者に別段、驚きもせず、やはり優雅な物腰ですっとソファーから立ち上がり、ヒューゴの前に立った。
「オベロン社総帥、ヒューゴ・ジルクリフト殿ですね。私は、」
 言いかけたウッドロウをヒューゴは表情で制して見せた。
「存じ上げておりますよ。ファンダリア国第一王子、ウッドロウ殿下でしたな。」
 口調はひどく丁寧で声は穏やかだったが、その視線がそれを裏切っている。
 ウッドロウは、その、どこか棘のある視線の中に、微弱な敵意のようなものを感じ取った。
 それはとりあえずにおいて、見知らぬ来訪者に対しての威嚇のように見えた。
 リオンのお父上…?。反射的にそう思った。
 ウッドロウの内面の疑問を察したかのように、ヒューゴは口元に薄い笑みを浮かべ、ウッドロウの横を無言のまますり抜け、リオンの背後に立った。
 そしてその両腕をリオンの背後からまるでその身体を拘束するかのように前に回し、その掌を胸に這い回らせた。
「…なッ。」
 リオンの身体がぎくりと反応し、身を翻そうとするが、ヒューゴはそれを許さない。
 ヒューゴはかまわず、前に回した手をリオンの上衣の襟元から入り込ませ、その服の中で奥の方まで伸ばし、掴んだアンダーシャツを引きずり上げ、露にした 胸元に直に触れてきた。
「…ッ!。」
 がくん、とリオンは首を垂れ、その動きにリオンの長い前髪が従った。
 リオンは前屈みになるように身を折り曲げ、その、無遠慮に身体を這い回る手から少しでも逃れようとしていた。
 ウッドロウは、突然の信じられない光景に目を見開いた。
 しかし、ウッドロウの驚愕の視線など意にも介さず、ヒューゴの、リオンを嬲る手はとまらない。
 リオンは崩れ落ちそうになりながら、前髪を乱して必死に唇を噛み締め耐えていた。
 荒々しく肌を這い回る手の動きがリオンの服のふくらみで分かる。指が胸の突起を捕らえ、その身体が示している確かな反応にヒューゴは満足そうに唇の端を 吊り上げた。
「…私はこのリオンの後見人でしてな。生まれてすぐに親を亡くしたこの子を引き取り、以来、ソーディアン・シャルティエのマスターとして私が育て上げたと いう訳です。…実に、よくやってくれてますよ。…何しろこの見てくれでしょう。」
 リオンを弄る手を休めもせず、ヒューゴの目が意味ありげに、ちらりと掠めるようにしてウッドロウを捉えた。
 リオンは俯いたまま、唇を噛み締めている。
 長い前髪のせいで顔の表情は見えないが、小刻みに肩が震えていた。
 ヒューゴは、乱れた服の中で荒い息をつくリオンの身体を抱え直すと、今度は右手を上衣の裾からすべりこませ、乱暴に下肢の服の中に突っ込んで、そこを直 に捉えた。
「あッ、や…!。」
 指がリオンの熱くなった部分をこするようにすると、びくりとリオンの身体が大きく跳ねた。
 噛み締めていた唇がほどけ、苦しげな声がこぼれた。
 そして息を詰めるようにした一瞬後、リオンは激しくかぶりを振った。
 もう呼吸が不規則に荒くなっていた。
「今日も私の事業の取引のための大事な客が来ていましてな。このリオンにもその『取引』に一役買ってもらうことにしたと言う訳です。」
 そう言ってヒューゴはクク、と哂った。
 そのありありと残忍さを漂わせた笑みには、薄汚い計算高さが露呈しており、その言葉が意味するところを知れた。
「う、…っ、うぁ…や…。」
 リオンの声にこれまでのそれとは少し色の違うものが混ざり始めていた。
 しかしその寄せられた眉が、この行為が彼の意に添わないものであることを証明している。
「そら、ここを、こう…。」
 ヒューゴの手が、リオンの服の中で、さらに奥の方に伸ばされたことが判った。
「…ッ…ダ、も、…やぁあっ。」
 その、ひどく苦しげに上げられた声が何を意味するものであるかを悟った。
 ぞっと寒気が走った。
 けれど彼のその苦悶に染まった表情に目を引き寄せられる。そしてまるで拘束されてしまったかのように身体が硬直し、視線をリオンから少しも逸らせなく なった。
 そんなウッドロウの様子にヒューゴは含み笑って言った。
「そういうワケですので。…殿下、今日のところはお引取りを。」
「…。」
 不意に。
 信じがたいような怒りの感情が込み上げてくるのをウッドロウは感じた。
 そして、善意の中に囲まれて生きてきた自分とは到底無縁だったはずのその感情が、突如として嵐のようになって、ウッドロウの中に巻き起こった。
 これは。
 何なんだ。
 こんな少年に。…自ら親代わりの後見人であると名乗っておきながら。
「彼から離れろ!。」
 自分でも信じられないような低い声が出た。
 ウッドロウは夢中でその、ろくに喧嘩をしたことも無い腕をヒューゴの胸倉めがけて伸ばしていた。
 頭に血が昇りきっていて、本来の自分なら到底考えられないようなことをしていた。
 その瞬間、リオンの朦朧とした瞳がこちらに向けられているのが視界の隅に見えた気がした。
 一瞬後、左頬を殴られたヒューゴは部屋の壁に背を打ち付けていた。
「旦那様!。」
 そう叫んだ執事の声と、ヒューゴの身体が当たった衝撃で、すぐ横の飾り棚の上に置かれてあった花瓶が床に落ちて割れた音とがほぼ同時だった。
 ヒューゴの腕から解放されたリオンががくりと床に座り込む姿が見えた。
「何て事を…ッ。」
 執事が叫んでいた。
「ああ、ああ。何てことだ。何て…。」
 混乱したように執事はヒューゴの側に駆け寄り、必死にヒューゴの身体を支えようとしていた。
 殴られたヒューゴは唇の端に血を滲ませていた。
 そしてやはり唇に陰気な笑みを浮かべたまま、初めて人を殴り、どこか放心状態のまま、荒く息をついている「若造」のウッドロウを一瞥した。
「ふ、…よい。ここは退くことにするか。」
 そう言って、ヒューゴは執事と部屋を出て行った。
「ああ、ああ。何てことだ…。何て…。」
 気が動転したような執事の言葉が何度も何度も繰り返して廊下から聞こえていた。


 客間にはリオンとウッドロウが取り残された。
 しんとした部屋の中で、まだ整いきらぬ荒い息をはずませ、リオンが床に座り込んでいる。
「大丈夫かい。リオン…。」
 問いかけには答えず、リオンは俯いたまま、肩を小刻みに震わせていた。
 ウッドロウはリオンの傍に跪いて顔を覗き込んだ。
「…リオン?。」
 驚いたことにリオンは俯いたまま、笑っていた。
「ふふ…ふ。はははは…。」
 唇を歪ませて、苦く笑っていた。
「…馬鹿、…お前、殺されるぞ。」
 そう囁くように言ったリオンに、ウッドロウは慌てた。
「…ッ、しかしリオン。あんなの到底許せる訳ないだろう…!。」
 リオンは俯いたまま、ゆるくかぶりを振った。
「…馬鹿、本当に…。お前、殺されるんだからな…。」
 そう唇を歪ませて笑いながら言ったリオンの頬は涙で濡れていた。









 
2004 0228  RUI TSUKADA



 パパVS王子でした…。ついに殴っちゃったよ、この人。
 ここで問題です。
 王子の右ストレートが炸裂していなかったらパパ、どこまでやる気だったのでしょう。
 1 リオンがいくまで。
 2 ヒューゴがいくまで。
 3 王子が(トイレに)いくまで。

 …下品でスマン〜。
 でも18年前のパパの天敵は王子じゃないよな。こいつ、青すぎる。
 それにしてもヒューゴさんちでバイトがしたいよ。飽きない家だよ。ホント。
 
 さて、続いてしまいます。
 次回予告『王子と剣士(3)』
 悪の大魔王にうっかり喧嘩を売った白銀の王子は、囚われの姫を我が物にすべく奮励努力する。
 ↑
 このヘンテコなあおりに違和感ないから困ったもんだ…。
 とにかくだな、私は大マジメだ!。

 ところで白薔薇の名前はやっぱり「スイート・リオン」だね(違うって)。