壁掛けの時計の秒針がカチリと音を立て、午後5時になったことを知らせていた。 この部屋に、連れて来られたのは、たしか昼を過ぎたあたりだったから、既に4時間以上を待たされていることになる。 私がこれから為さなければならないこと。 それは自分では、どうあっても動かしがたい絶対の命令によるものだった。 父・皇帝から、その命令を受けたのは、今から一週間ほど前になる。 父から「それ」を言い渡されたときのことは忘れない。 そしてその命令の中身の不条理さを、言葉によって理屈にすり替え、幾度も頭の中で反芻し、無理に向き合い、理解した気になって、諦めるのに没頭した一週間だった。 人にはその立場に応じた役割がある。 特に数百年も続いた組織の中の一パーツの人間ならばなおのこと。 個人の意思など到底及ばない、動かしがたい秩序という名のレールから、外れて歩む権利など、誰にもありはしないのだ。 だが、今あるこれを、果たして『秩序』と言えるのだろうか。 甘く見ていたのかもしれない。 この帝国にあって、皇家とは、決して守られている存在ではない。 しかし、ここまでとは正直思っていなかったのも事実だ。 16年間生きてきてこれまで意識したことさえなかった、あからさまな攻撃。それに晒されて、まさに他者による殺意というものを、すぐ傍に感じたのだ。 そしてその、人としての良識など遠く及ばぬ「やらなければやられる」という無法とも言える世界の中で、ソリドール家は屈した。 |
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部屋の南側には、両面開きの大きな窓があって、そこから空が見えた。 晩秋の空には、北の方に辛うじて蒼い色が残っているようだったが、西よりに広がった橙色が、もう日没に近いことを知らせていた。 部屋の床には、テラスに作られた人工庭の落葉樹の影が長く落ちていた。 日の翳りとともに部屋の中は、急速に温度を下げてようだ。 寒さを覚え、私は少し姿勢を崩し、短く溜息をついた。 随分と長い時間、椅子に座ったまま緊張を保っていたせいか、ふいに私は窓辺に立ってみたくなった。 部屋の扉の前には、衛兵が二人ほど立ってはいたが、私がここに来たときから彼らは一言も言葉というものを発しようとせず、その彼らが私の行動に興味を示すとも思えなかった。 しかし椅子から立ち上がろうとしたそのとき、扉がノックされてすぐに廊下から数人の高官たちが無言のまま部屋の中にぞろぞろと入ってきた。 鎧の兵士を従えた高官たちは、皆、濃紫の布地に精緻な刺繍の施された長い外套を頭からかぶるように纏っていた。 額にもかかる厚い布地のせいで、よほど近くに立たない限り、彼らの表情は解らない。 役人の中の一人が私の方に歩いてきて、正面に立ってこう言った。 「諸事万端、整いました。ヴェイン殿。」 まるで紙に書かれたものを読み上げるような口調だった。 態度そのものは上流階級の者らしく丁寧ではあったが、その抑揚の無い口調の中にあるのは、「自分と他者」、すなわち対極に位置するものを明確に分ける線引きだった。 法の正義の代理人であるかのような顔をして、こちらを「裁かれし者」と決め付ける。 それに私を無知な子供だとでも思っているのだろう。 そういった一連の態度を見て、私はたしかにこの男になめられてたまるかと思ったが、今、私を本当の意味において怯ませたのは、そういった単なる反抗心からくるものではなかった。 少なくとも私は、この一週間、父・皇帝の命令に悩みぬいたのだ。 『何故』という疑問を幾度も繰返し、血を吐くような思いで、考え抜いたのだ。 その結果、私は皇城の中の状況というものを、楽観的に見すぎていた、彼らを信用し過ぎていたということを思い知った。 だが、まさにその、達した結論の末の「そのとき」が来たというのに、この、とてつもない『違和感』はどうだ。 感情の無いたった一言で、私が、これから実の兄を斬り殺す死刑執行人の役割を宣告されたという、この『違和感』は。 私は到底すぐには椅子から立ち上がる気になれず、姿勢すら変えず、声の主を下から見据えた。 窓から斜めに射し込む、低くて色の昏い光を受けて、その紫の布地に覆われた顔の彫りの深さや落ち窪んだ眼が一層強調されている。 こんな顔をしていたか。 この男の顔をまともに見たのはこれが初めてだ。 対峙した「政敵の一人」は、眉一つ、頬の筋肉ひとつ動かさず、表情を殺すということに慣れきっているように思えた。 なるほど、たしかに曲者らしい顔だと思ったが、こんなひ弱そうな老人たちが、廃帝権を振りかざすがために、父・皇帝は長年手を焼き、あるいは幾度も煮え湯を飲まされ、そして今回、取り返しの付かない敗北を喫したというのか。 『皇城に棲みついた妖怪どもが。』 『あるいは、私ならば…。』 私は子供のように心の中で悪態をついてみた。 するとその目の前の男は、私に対して何かを言いたげに、ふん、とひとつ鼻を鳴らした。 その一呼吸と、顔の筋肉の、引きつった動きひとつで、その場の雰囲気ががらりと変わる。 先程の無表情が見事に一変し、侮蔑の鋭い刃を湛えた顔になる。 これが何世代にもわたり大国を裏で操ってきたという自負なのかと思った。 特権階級に生を受けた者としての過剰な自信と、ソリドール家への対抗意識と、そして紛うことなき勝利の確信と、剥き出しの敵意だ。 一層重くなった沈黙の中、私は、せいぜい挑むように睨みつけてから立ち上がった。 部屋から出て、突き当たりが見えないほど長い廊下を、兵士に囲まれるようにして歩いていく。 しばらく歩いてから、先行の兵士がある部屋の前で止まり、その扉の前にいる兵士に何か耳打ちをしていた。 ほどなく目の前で重い扉が開かれ、私は促されて部屋の中へと入れられた。 かなり天井の高い、奥行きのある部屋だった。 皇城には、そもそも色々と用途のわからない部屋が多く存在する。 数々の執務や会議のためのスペースでもなく、賓客を泊めるための貴賓室でもない、そのくせやたらと内装に手間を掛けた造りの、こういった部屋は、一体、誰の命令で、何のために作られたのか。 部屋へ入ると同時に、背後で内鍵がかけられる音がした。 金属がぶつかりあうときの硬質の音に、一瞬の、微弱な恐怖のようなものを覚えはしたが、振り返ることはしなかった。 部屋の中は暗かった。 日没が近いとは言え、まだ日の光も残っているはずなのに、この部屋は、どの窓にも遮光のカーテンがかけられているのか、暗さに眼が慣れるまで少しの時間を要した。 私は、初めて入ったこの部屋の周囲の状況をいち早く把握しようと、視線を部屋の奥の方へと巡らせた。 すると、視線の先に一塊の人間が、立っているのがわかった。 そしてそのさらに奥の方の、部屋の隅の一角だけが、妙に明るく照らされているのが解った。 誰かが私の背中を押したようだった。 はっとして周囲を見渡すと、20人はいるであろう公安の役人たちが、何時の間にか、私の周りをぐるりと取り囲むようにして立っていた。 私の視線に反応するように役人たちは皆、すっと一歩後ろへ下がり、私に対して道を開けた。 私はそれに導かれ、周囲の者たちの観察の視線を受けながら部屋の奥へと進んだ。 明るく照らされた部屋の一角の近くまで来ると、そこにある光景が明らかになる。 先ず馴染んだ香りが鼻についた。 それは、上の兄が好んで使っていたコロンの香りだ。 上の兄がこちらの背を向けたまま、椅子に座っているのが見えた。 私は息を呑んだ。 先程待たされていた部屋で感じたある違和感、それが一層色濃いものになる。 視界の中の、兄の姿は、いつもと何ら変わらない。 黒髪はいつものように整えられており、気に入りの白銀の文様の入った鎧を纏っていた。 それが兄の死装束だった。 また背を押された。 そして今度は、私の手に、重い刃をもつ剣が、まるで押し付けるように握らされた。 その金属の冷たい感触とずしりとした重さは、普段扱いなれたはずの剣ではなかった。 その違和感。それはこの部屋に充満している悪意から来るものだ。 部屋の中の全ての者たちの、あるいはこの国の中枢で権力を握る者たちの、ソリドール家に対する敵意そのものだ。 「覚悟をお決め下さい。」 その声に、先程、部屋で見た紫の外套の中の、肉のそげおちた頬、剣呑な眼の光がよみがえる。 周囲の悪意に満ちた興奮がはっきりと感じ取れる。 覚悟?。 一体、何のための覚悟だというのか。 皇家に生まれた者は、幼い頃から民のために尽くすのだと教育されるのだ。 物心ついたときには既に大人の中に居た長兄とふざけあったり、遊んだりしたことはなかったが、兄に向けられた賛美の声、兄が立てる武勲は、やはり同じ家の者として純粋に誇りに思っていた。 身を削るようにして、帝国のために尽くしてきた兄だった。 その兄が、「国家反逆」という烙印のもとに、あらゆる価値を否定されている。 そこだけ明かり灯された部屋の一角で、肘掛のある椅子に座していた兄が、傍らの役人の言葉に反応して立ち上がった。 「無理だ、私には。」 嫌悪感に吐き気すら覚えて思わずそう言った。 だが、この期に及んで、拒絶する権利などどこにもなかった。 議会裁判の議決は絶対に覆らない。 まして感情によって拒んだりすることのできる類のものではない。 覚悟の定まらぬ私は、まるで機械仕掛けのようにぎこちなく、兄が立っているところへと向かった。 兄の顔は、まだ見えない。 私は懸命になって、長兄のいつもの自信に満ちた眼や、張りのある声を心に浮かべた。 すぐ近くまで来たとき、兄は無言のまま、その場で床に膝をついた。 「…何を、しているのですか…?。兄上。」 私の剣が届くように跪いて俯く兄の姿がそこにあった。 「一体、何だというのだ、これは!。」 殆ど叫びのような問いかけに誰も言葉を返さなかった。 私は怒りと絶望感に混乱した。 言葉を続けることもできずに、茫然と立ち尽くす私の背に、また誰かが触れた。 早くしろと声が聞こえたような気がする。 違う。 そう思った瞬間、頭の中が白く弾けた。 肩を掴む腕がある。 恐怖感から私はそれに反射的に抗った。 私の突然の抵抗を見るや、今度はその腕に、明らかな拘束の力が加わった。 強い力だった。その瞬間、私は完全に冷静さを失い、動転した。 無我夢中でつかみ掛かろうとする幾人もの手をふり払い、目の前を阻む腕を払いのけた。 行く手には、兵士が群れになって立ちはだかった。 ほとんど体当たりで逃れようとする私に向かって複数の腕が伸びてくる。 すぐに私は取り囲まれ、そのまま引き倒されるような格好になり、上から身体ごと押さえこまれ、もはやそれ以上、一歩も前に進むことも出来なくなっていた。 理解できなかった。 国家反逆を犯した者が、どういう末路をたどることになるかなど、昨日今日決まったことではない。 だが理解したくなかった。 反逆罪と、あの兄とが結びつこうはずがなかった。 こんな馬鹿なことがあろうはずがなかった。 国のために、いつでも命を投げ出すと、それでも明るく言っていた兄だった。 正義を愛し、武芸に秀で、死すらおそれぬ兄だった。 だが、こんなものが、あの兄が覚悟した「死」ではあろうはずがなかった。 あの兄に訪れるのが、こんなににも惨めで、哀れな死であってはならなかった。 はなから悪意しかない者による罠であり、全てはしくまれた陰謀なのだ。 過ちならば、正さなければならない。単純にそうしなければならない。 私が今、取り返しのつかないことをしてしまう前に。 常識で考えれば分かることだ。 誰の眼にも明らかなはずのこの茶番を、まかり通らせてはならない。 だがなぜ誰も何も言おうとしない。 皇家の長子だった者が、…床に膝をつき、実の弟によって、斬首されようとしているこの光景に、何故、誰も異を唱えようとしないのだ。 これがいかに残虐で、何者かによる絶望的で破滅的な欲望によるものなのか、誰にだって解るはずだ。 無様に床にうつ伏せになった私の目の前に、誰かが膝をついた。 その者は、しばらく同じ姿勢のまま、何も言わずにそのまま私を見おろして動かずにいた。 そして、私を取り囲む人間たちを下がらせ、床にうつぶせたままの私の呼吸が整うのを辛抱強く待っていた。 私はやはりわずかにも救いを求めるようにして、身じろいだ。 呼吸が元にもどると、あまりのことだったとは言え、多数の人間の前で取り乱し、暴力を振るったことが、今更ながらに羞恥となって押し寄せてきた。 せめて立ち上がって、この目の前にいる男に何か言わなければ。 そう思ってようやっと身を起こしたとき、その男によって発せられた言葉にまた私は凍りついた。 「陛下も同意なされました。これを進言したのは私です。」 信じられないその言葉を発したのは、ソリドール家に二代に亘って仕えた執事だった。 祖父と父の信頼を受けたはずのこの男ですら、保身のために、あるいは冷酷に、損と得とを秤にかけて向こう側へとつく。 「黙れ、この、腰抜けが。」 怒りにかられてそう言ったものの、口を割って出た声は、自分でも情けなくなるくらいに震えていた。 だが言葉は部屋中の沈黙を破って思いのほかよく響いた。 周囲の空間に、また先程のような緊張が走り、私の動きのひとつも見逃すまいとする、好奇の視線が集まった。 奴らにとって敵が身内同士で争う様は、さぞかし見ごたえのあるものなのだろうと思った。 吐き気のする見世物だった。 「ソリドール家の、アルケイディア帝国の未来のためにです。」 「…未来だと?。この茶番の先にどんな未来があると言うのだ。」 「貴方はお若い。今の貴方では、この帝国の皇城の中の血脈の流れを、本当の意味において理解することはできますまい。」 「ふざけたことを。一体、これのどこに理解するだけの価値がある!。」 「だからこそ貴方は今回守られたのです!。」 「詭弁だ!。実の兄を斬ってまで守られたい命がどこにある!。」 「皇家の力は、無限ではございません。」 執事だった男は、静かに、それでもはっきりとそう言った。 「この帝国の、数百年の秩序の中においては、皇帝の権威の脆さを、弱さを、貴方は、お認めになれねばなりません。…刹那的な正義感や、感情優先の主観で、失ってはいけないものがあります。お認めになって、守るのです。それが貴方の。…第三皇子の役割でございます。」 「私の、役割。」 疑問の形でそうは言ったが、もはやこれは疑問でもなんでもなかった。 「…この流れの中においては、誰の力も、無限ではございません。」 執事だった男は、そこで言葉を一瞬区切り、その後、はっきりと言った。 「兄君は、貴方によって斬られることを望み、父君は、できれば貴方に変わりたいと、そう仰っておいででした。」 視界がざらついた。 涙は出なかったが、周囲は油膜が張ったようにぼやけていた。 一度噴出してしまった感情の波は、静まることを知らなかった。 だが、今、それを理解しないまでも、受け入れねばならなかった。 流れの中で、生きるものと死ぬものが、今分たれたのならば、自分は、ソリドールの名を持つ者として、生き延びねばならないと思った。 私は、ふらりと立ち上がった。 「必ず、そのときは、来るのだ。」 私は、呟いた。 だがこれは、これからの未来への『願い』とか『望み』とか、生易しいものではなかった。 真の意味における、強大な敵に相対したときの、確かな手応えだった。 自らの存在全てを賭けて、己を本気にさせるもの。それに今、出会ったのだと思った。 身体の奥底から、例えようも無い興奮がふつふつと沸き起こってくるのが解った。 自分が何故、この世に生を受けたのか、その自らの存在の意味を知ったのだ。 私は一歩、そこから踏み出した。 身体から、今まで抱いていた、単純に善なるものに憧れる感情、肉親への単純な愛だと思っていたものや、美徳と信じていたものが、ぽとり、ぽとりと雫になって、落ちていくのがわかった。 これまでの私という存在を覆い隠してきたもの、自分を創っているものと信じていたものが、削げ落ちてゆく。 殻をやぶって私の核を形成しているものが、抜き身の刃となって今、現われたのだ。 私は、もつれるような足取りで、それでも少し離れたところに落ちている、先程投げ捨てた剣を拾った。 剣は重かった。 これは兄の命と、ソリドール家の重さだった。 私はもう、抗わなかった。 暗くて、中から鍵の掛けられたこの広い密室の中で、敵に囲まれているということも、もう恐れはしない。 私の奥底に目覚めた本能に誓う。 逃げない。 反駁の声も上げない。 この覚悟の前には、あらゆる感傷は無駄だった。 |