『ゼクト(3)』




 
 為すべきことが決まってからというもの、時間の経過が飛ぶように早かったことは有り難かった。
 あの方の真の目的を知り、あの方がいかにそれを成し遂げるべく、少なくとも6年前には既に綿密なシナリオを創り上げ、それに沿って行動し、周囲を巧みに操っていたのだということを知れば、こちらの為すべきことも決まった。
 そしてそうなった以上、もう怒りも悲しみもない。今、大切なのは、過去に思いをめぐらすことではなく、ただ機械的に、合理的に、計画を立てて物事を推し進めることであり、そのあわただしさが、今の自分には有り難い。
 
 だが、出発の明日にをひかえて、やはり気が昂ぶっていたのかもしれない。
 夜明けの少し前には目が覚めてしまったので、ベッドから出ると、部屋を片付けと身の回りのものをまとめる作業を始めた。
 自分では、死んだように過ごした二年間だと思っていたのだが、それでもそれなりに私物は増えていたので、それらを全部綺麗にまとめるのには少々の手間と時間を要した。

 この屋敷で働いてくれている者たちには、特にひまは出さなかったが、じきに彼らが自分たちで何とかしてくれるだろう。
 屋敷にある家具とか調度品とか。豪華なものはひとつも置いてはいないが、欲しいものがあったり、あるいは金に替えられるようなものがあるならば、自由に分けてくれてかまわないと、簡単に書き残して行くことにしよう。

 部屋の片付けが終わると、今度は出立の支度の方に取り掛かった。
 こちらは大した手間がかかるというわけではない。
 衣類の詰まった棚から必要なものだけをひっぱり出して、それをバッグに詰めればそれで済んだ。

 ふいに開いた窓の隙間から、風が入り込んできた。
 海の方から吹いてくる早朝の風は、寝不足の身には心地良い。
 そのひんやりとした冷たさは、だるさも眠気も払拭し、海の香りは、ここで過ごした時間、知り合った人々、この窓から見渡せる街並み。それら全部を愛しく、また懐かしく感じさせる。
 そしてこんなふうに清潔な感じのする風というものは、ふいに自分が若く希望に満ちていたときの記憶を蘇らせる。
 別に今になって感傷にひたるつもりも無ければ、弱気になっているわけでもない。
 今日の行動の先にあるものを、ひとつも恐れてもいないし、ましてそれを『覚悟』であるとか、重く大層な言葉で表現するのも違和感を感じるくらいだ。
 別に死にに行くわけではない。
 本来、思い出というものは、どれほど頑なに自分の中に閉じ込めたつもりでも、些細なきっかけで勝手に甦ってくるものなのだ。
 過去は決して動かすことができなくとも、こうして決心を固め、具体的に行動できる日が来たのだということ。
 そう思えば、きっとどんな過去であっても、その記憶には穏やかな薄膜がかけられ、行く先に明るい光が射し込んでくる気がする。
 今日はきっと相応しい日だ。

 少しだけ惜しむような気持ちで窓を閉め、部屋の入り口の扉の傍に立ち、もう一度部屋の中を見回した。
 ここへ戻ることは無い。静かな感謝とともに扉を閉め、部屋を後にした。

 いつも通りに屋敷の正面玄関から外に出て、ポーチから見上げると、夏特有の深い藍色の空がいっぱいに広がっていた。
 今日もよく晴れた暑い日になりそうだった。

 

 ##

 多分、まだ二十歳になる前のことだった思うが、自分は、これからの人生において、長い旅をすることになるのだと、そう思っていた時期があった。
 早くに両親が他界したせいかもしれない。
 兄弟も無かった自分は、途端に天涯孤独というものになり、当時年齢的に、まだ子供の部類に属していたためか、身内の死というものが自分の立場にどういう影響を及ぼすかとか、そういったことを本当の意味において理解していなかった。
 世の中に一人で放り出されることになったというのに、それに開放感のようなものすら味わっていたのは、やはり若者ならではの無神経さとのん気さがあったからなのだろう。
 経済的に全く困らなかったことも一因ではある。
 金銭的な苦労というものを知らずに、何不自由なく少年期を過ごした自分は、身内の死とともに突如として目の前に現われた、未知なる世界、拓かれた自由と いうものに、悲しさを遥かに超えた魅力を感じ、それが自分を『旅人』に位置づけるという考え方を一層、色濃いものにしたのだ。
 若さ故の驕り。
「自分はこれから『旅』をする。あらゆる苦難も恐れやしない、何物にも縛られず、自分の意志で、自分の力で、未来を切り開いていく。」
 そう本気で思っていた。
 相続した財産は、かなり大きなものではあったが、その中から当面困らない分だけを受け取り、残りの大部分は、家の顧問弁護士に任せて、二十歳になるのを待たずに故郷を後にし、アルケイディア帝国を目指した。
 家を出たと言っても、自分は依然として実家の力に護られていた。
 帝国随一の名家であるソリドール家の私兵に、しかも幹部候補としてすんなり仕官できたのも、父や祖父の名があったからであり、また、そうでなければ、あの方に会うことも無かっただろう。
 帝国というところは、表向きの豊かさやあふれんばかりの自由の裏に、あらゆる束縛、裏切り、そして欲望や策略が渦巻いているようなところであり、そしてその渦中に、当時の自分よりも年若いあの方は居た。
 そのとき、己の旅における目標を見出したのだ。



 ##
 
 屋敷のポーチから続く石畳を少し歩いて庭に出るとそこから空を見上げた。
 二年間、自分は、この静かな空に守られて過ごした。
 この静かな空の向こうに、あの光景がある。
 ナブディスを覆い尽くしたミストの刃、環状に広がった破壊の光景。
 目を閉じるとそれらは今も変わらず鮮やかだ。

 あのとき、自分の旅は、これで終わったのだと、そう思ったことを覚えている。
 それから無我夢中でこの辺境の港街に逃げ込んだ。
 最後の誇りを奪われ、自分を形成している人間性そのものを全て失わなければならないことになったのだと。
 これからは、自分の意志で行く先に明るい光のようなものを見出だしたり、あるいは未知なる冒険に胸躍らせるようにして、挑み歩むことは、もう無いのだと。
 その権利も無いのだと。
 これから先、ずっと自分のしたことを悔い、己の短慮、無知を憎み、死んでいった人たちに決して赦されることは無いと知りながら詫び続けなければならないのだと。
 それは罪悪感とは少し違う。正直なところ、当時、あまりにも唐突過ぎて、あれをちゃんと罪として意識する余裕も無かった。
 ただ、とんでもないことをしでかしたのだと。それだけで頭がいっぱいになって、目も耳も、感情すら全てを閉じて逃げ出していたのだ。

 だが二年を経て、あの大罪は自分を変えただろうか。
 自分の本質は少しも損ねられることが無かったのではないか?。
 それどころか今、その過程はどうあれ、結果的には、こうしてまた、一歩踏み出せたのなら、もしかしたら悪くない二年間だったのではないか。
 皮肉なことにも、空賊『レダス』として偽りの人間を演じて過ごした二年は、いい具合に傷を癒し、自戒の刃を鈍磨させ、また現実を見詰め、歩き出す力を与え、自分を取り戻すに至らせてくれたのではないか?。
 あれを綺麗な言葉で取り繕うことはしないし、大罪を忘れたわけではない。
 けれど自分には、まだ命があるではないか。
 この残された最後の切り札がある限り、生きるということの意味は、失われてはいない。
 命がある限り続く。旅はまだ終わっていない。
 単に生命が途絶えなかったということではない。
 つまり、自分は今もゼクトだった。

『でも何故、生きている。』
 もちろん、この疑問は二年間抱え続けた。
 だが、あの方に問うでもしなければ、本当のことは解らない。
 ナブディスと共に『ゼクト』も始末するつもりだったのならば、自分は今、万が一にも生きてはいまい。
 『ゼクト』を生かす意味があったのか、と考えればまた答えに行き詰る。
 だから答えは、自分で導き出すしかないだろう。
 自分の心はまだ帝国にある、のだと。
 偽らざる自分『ゼクト』は、今も変わらず願っている。
 支えたかった。
 護りたかった。
 仕えた証として、真の意味において、あの方をお救いしたかった。
 自分の真実を形成し、核になっているものは、きっと何をもってしても、変えることなどできないのだ。
 生きることを運命づけられた自分の命に今、宿っているもの。
 それは、騙された愚かな男の恨みでもなく、全てから逃げ出した「空賊・レダス」でもない。

 ヴェイン様。
 この二年間、貴方のことばかり考えていました。
 時間をおいても、貴方の記憶は薄れることがありませんでした。
 貴方がまだ幼い時分から、ジャッジとして傍にお仕えしていたというのに、あのとき自分は貴方のことを何一つ知らなかったような感じがしてなりません。
 語り合った軍略や作戦行動、それらに関して、側近のジャッジマスターとしての知識や軍人の経験をもってしても、貴方の思考にわずかにも掠めるようなことも、できなかったかもしれません。
 ですがこうして離れてみて、不思議なことに自分には、あのときよりもはるかに貴方のことが解るような気がします。誰よりも近しく感じます。
 
 貴方が挑もうとしているのは、『神』に等しき存在。
 彼らから見れば、我らヒトの一生は一瞬の出来事であり、ヒトとは儚く脆い存在です。
 彼らの支配や断罪の恐怖に怯えおののく「かよわき存在」、それがヒトなのであります。
 ヒトとしての領域を超えた行いは、必ずや滅びの道へと続いているのであります。
 どうか貴方の魂までも穢れてしまわないように。
 ジャッジ・ゼクトは、最後の務めとして、貴方が進む道の妨げとなって、貴方を止めます。










 庭の中ほどに差し掛かったあたりで、門の前を掃除していた使用人が、こちらに向かって会釈をするのが見えた。
「おはようございます!レダス様。夕べはよくお休みになりましたか?。」
 人懐こい笑顔を向けて、使用人はこちらに小走りに駆け寄ってきた。
 よく気の付く、気の優しい男だった。
 だから今、なるべく余裕のある、リラックスした笑顔を彼に向けて、うんと頷いてみせる。
「ああ、気持ちのいい朝だな。今日はちょっと出かけてくる。帰りは遅くなるかもしれないから、留守をよろしく頼む。」
「遠くにお出掛けになるのですか?。」
「…そうだな、まずは海に出て、それから空に届くような断崖の上で、花を見て来ようと思っている。」
 男は少し驚いたように、花ですか?、と言った。
 ジャッジマスターだったときも、そして今も。
 自分の中で、あの花は変わることなく美しい姿のままだ。
「そりゃあいいですね。ちょうど季節も良いですし、どうかお気をつけて!。」
 首に下げたタオルで頬の汗をこすりながらその男は言った。
 彼のいつも通りの、親しい笑顔がうれしかった。
 それに応えて右腕を軽く上げ、屋敷の門を後にした。
 







2006 0608 RUI TSUKADA




読んで下さってありがとうございました。