『ゼクト(2)』




 「卿ならば必ずやり遂げてくれると信じている。」
 こちらに一歩踏み出し、わずかに見上げて皇子はそう言った。
 間近で向けられたその真摯な眼に思わず息を呑んだ。
 冷静な口調そのものは、いつもの軍議の間で知っている事務的なものなのに、目の前の皇子の表情が、何故かいつもとは違う気がして、そのどこかこちらを追い込むような雰囲気に気おされた。
 僅かに上目遣いにこちらを見据える眼の奥の方に、何か特別な意味が込められているといった感じの、揺らいた光が宿っているように思えた。
 何かを恐がっておられる?、この皇子に限って『そんなはずは』と頭で否定したが、その矢先、視界の中、ゆっくりと、スローモーションのような動きで、皇子の両腕が差し出されるのが見えた。
 そのゆるやかな弧を描く動きと、わずかに高揚したような皇子の表情に釘付けになった。
 差し出された右の掌が、自分の頬に触れてきた。
 少し冷たい感触が触れた瞬間、途端に額や背中や、体中で汗が吹き上がるようだった。
 自分の喉が、息を呑むと同時に、驚くほど、浅ましい音を立てるのが解った。

「卿は今、何を見ている?。」
 皇子の言葉も、その一連の仕草も。自分を取り巻く世界を見事に変える魔法だった。
 外界の音が途絶える。視界の中には、彼の姿しか見えなくなる。
 ふいに足元が揺れて、立っていられなくなるような錯覚にとらわれた。
 覚えの無い、あまりにも不思議な甘美さに対する込み上げる思いに、うろたえ、たじろいでいたのだ。

 全部見透かされているのだ。この年若い皇子へのこちらの感情など、すっかり全部読まれているのだ。
 顔にも態度にも出たからか。そう思うと、途端に激しい羞恥心が沸き起こった。
 だがせめて、奥底に秘めている、突如として今、表出してしまいそうな、溢れんばかりの、皇子に対する浅ましい感情だけには、この卑しさだけは、決して悟られてはなるまいと、反射的に間近の皇子の顔から、無理に視線を引き剥がした。

 頭を冷やして考えてみればいい。
 この皇子は、大艦隊を擁するアルケイディア帝国軍総司令官なんだ。
 そして今や、内政も外交も、それこそこの帝国の中枢の全てが、この方の存在をもって、こうもバランス良く機能しているんだ。
 そんな皇子を前にして、少々、自分に対して見せてくれた感謝とか、どこかこちらをからかっているのかもしれない親しみのようなものを、手前勝手な劣情で都合のいいように捻じ曲げて解釈できるほど、おめでたくなるわけにはいかない。なんという身の程知らずなことだろう。
「どうかお任せ下さい、ヴェイン様。部下も皆、この戦いに対する士気はとても高いのです。必ずやヴェイン様のご期待に沿い、我が帝国に緒戦の勝利を持ち帰ってご覧にいれます!。」
 上ずった、どちらかと言えばぶっきらぼうな口調になったが、とりあえずこう言えたことに安堵した。
 そして頬に触れた皇子の手をやんわりと外した。
 社交界や皇室外交の場とか、この皇子が日頃歓迎を受けているであろう高貴な人々の付き合いとか、王族とか。そういった特別な身分の紳士たちならば、この手の甲に、それこそ自然に、何のてらいもなく唇を寄せられるのかもしれない。
 けれどやはり自分は、そういう環境での教育を受けたことがないし、まして冗談めかしてでもそれをするにも勇気というものが全く足りなかった。
 だから通常上官に対してする軍礼のような、曖昧な仕草を付け加えた。
 すると皇子はふっと短く笑った。
「…卿に頼んで正解だったな。」
 若い皇子に相応しい、美しい笑顔だと思った。
 そしてそう言われてやっとこちらも大きく、頷くことができた。
 少しの沈黙があり、それはついさっき、あれほど昂ぶりきった感情の波を和らげる役割をしてくれた。
 けれどその束の間の沈黙の後、皇子は少し俯き、わずかに首を振るようにして言葉を続けた。
 形のよい唇の端に、かすかに笑みが浮かんだようだった。
 その笑みは、どこか苦しみのように僅かに歪められ、ゆっくりとこちらに向けられた面に、凄まじく印象的な美しさを添えた。

「先程、私は卿に頼んで正解だったと言ったが、ゼクト、これだけは言っておこう。この任務は多分、卿がかつて知る幾多の戦いとは比較にならない、かなりの 危険なものになる。だが私は卿にナブディスで特攻してもらおうなどとは思っていない。…司令官とは嫌なものだな。…卿に生きて帰って来いと言うこともでき ない、つくづく損な役割だと思う。それに卿に死なれては、悲しむ者もさぞかし多いことだろう。」
 聞いた瞬間、深い感動に包まれた。
 歴史的な意味合いを持つのだというこの戦いの指揮官として抜擢しただけでなく、この命も必要としてくれている。その言葉だけで充分だった。
 たとえそれが、危険な任務に赴く者を鼓舞させるための方便であったとしても。
 この任務でたとえ、命を落とすことになったとしても。
 自分に死なれて悲しむ者がいる?。
 天涯孤独のこの身に、惜しむ命などありましょうか…?。

 ヴェイン様。
 呼んだはずの皇子の名は、声になるまえに喉の奥で、引き攣れたような吐息になった。
 声にならなかった代わりに、たまらない思いで性急に腕を掴み、二の腕までたぐり寄せ、乱暴に引き寄せて、倒れ掛かった身体を捕らえて夢中で抱きとめていた。
 止まらなかった。
 髪に指を差し入れた。想像していたとおりに、豊かで柔らかい髪だった。
 唇を寄せると、皇子が日頃愛用しているコロンの上品な香りがした。
 服越しに感じるその身体も、掴んだ腕も。
 軍人の自分とは、全く違う繊細な造りをしているものだということがわかった。
 …そりゃそうか。
 贅沢な環境で、幼いころから質の高い教育を受け、この世のあらゆる最高を与えられて、何不自由なく大切に大切に慈しみ育てられた、アルケイディア帝国の皇子なのだから。
 そう思った途端、とてつもなく、この世の全てに対して勝利したような気になった。
 あらゆる者への優越感。軍人としての誇らしさ。
 満たされた支配欲の満足感と、そして何よりも皇子に対する愛しさとが一度に押し寄せてきた。

 急な行為に驚いたのか、皇子は腕の中で、わずかに身を固くした。
 しかし嫌がるような仕草は見せなかった。
 強く抱きしめすぎたのか、押し付けられた胸に顔を半分埋めたようになって、ため息のように小さく息を吐くのがわかった。
 もう一度、腕の中の存在を確かめるように抱きしめて、そのまま抱き上げ、部屋の奥の寝台に押し倒していた。
 合意の確認を取る余裕もなく身体に覆い被さり、剥ぐようにして胸元を露わにさせた。
 言葉も無く、身体に直に触れ、唇を落とした。
 傷一つとてない滑らかな肌だった。
 生まれてからずっと、宝物として慈しまれてきたのだと思った。
 触れる肌を通して体温を感じる。
 その皮膚の下に流れる確かな血を感じる。
 才能ゆえに、あらゆる期待を一身に受けながら、常に政敵による陰謀のあからさまな攻撃の矢面に立たされて、特別の立場にあることを強いられ、重い責務を二十歳になる前から背負い続けた帝国の第三皇子だ。
 隙を見せることを許されず、普通の若者として振舞うことなど、望むべくもなかったことだろう。
 過酷な立場も、全て己の出生ゆえと受け入れなければならず、その重さはおそらく、この方を取り巻く側近の誰もが、あるいは肉親ですら、誰もが想像だにし得ない辛さだったことだろう。
 上質の布地で織られた衣類をことさらに焦るようにして剥ぎ取り、下肢を露わにさせて足を絡ませて体全体で密着する。
 これが私兵としての分を超えた行為であるということは、頭で解っていた。
 けれど、その距離を埋める言葉を自分は到底持ち得なかった。
 今、突如として湧き上がった感情の波は何をもっても沈められない。

 愛しています。
 ソリドール家に仕え、初めてお会いしたときからずっと。
 皇子がまだ幼かった時からソリドール家に仕え、その成長ぶりを見守ってきた。
 豊かな才能を見事に開花させていく皇子の姿は本当に眩しかった。
 聡明という領域すらはるかに超えて美しく成長したこの方は、この国の宝になった。
 けれど輝かしい評価や賛美に隠されて、この方はいつも底知れない苦しみや悲しみを抱えていたのではないか。
 頭の中で何度も何度も、「愛」という言葉を繰り返した。
 繰り返せば繰り返すほど、愛する者のために尽くせる喜びを、それ以上の真実は無いのだと確信できた。
 この方の期待に応え続けたい。
 信じてもらいたい。
 失望させたくない。

 抱いた皇子の身体は、自分の手によって容易く熱くなり、敏感な反応を返してきた。
 自分の下に敷きこまれるようになって、甘く潤んだ皇子の表情を見ると身体の奥が急激に熱くなり、とろけていくような感覚に襲われた。
 かすかに喘ぐような吐息が耳元で渦を巻いた。

 この方を守りたい。助けたい。支えになりたい。
 この命のある限り、この方のために、お仕えするのだ。
 帝国の軍人として、ソリドール家の私兵として。
 自分の全てを賭けよう。
 生涯、この方のために戦うのだ。
 歴史の中でこの軍事大国に咲いた深紅の花。
 高い岸壁の上で、誰にも触れられることなく、たった一輪で咲き誇る大輪だ。
 その孤高の存在に憧れていた。夢中だった。
 この方のためになら自分は全てを犠牲にできる。全てを投げ出させる。それが無上の喜びだと信じられる。

 皇子は、行為に決して慣れてはいないものの、既に誰かに触れられたことのある身体であることがわかった。
 けれどそれが何だと言うのだろう。
 この口付けで、この抱擁で、今、豊かに息づいたヒトとしての皇子を感じられたことの何と言う喜びであろうか。
 この皇子の中に、自分という、確かなヒトとしての存在を見出せたことの何と言う幸福感、充足感であろうか。
 主家の皇子と私兵。その壁を越えたような気がした。
 今、無我夢中で抱きしめて、その体温の熱さを感じれば、日々、任務を通じてのみ関われる「主従」としての距離などどれほどのことだろう。
 
 この帝国の中のあらゆる者、この方を取り巻く全ての世界、あらゆる人物を出し抜いたという実感。
 そして何より、この皇子の信頼を勝ち得たのだということに有頂天になっていたのだ。









 罠だったのだろうな。
 与えられた軍人としての誇りも。
 任務に添えられた輝かしい大義も。その尊さも。
 全てを巧みに言葉にして、こちらを死都へと向かわせるためのシナリオだったのだろうな。
 
 悲しみと錯覚したあの表情の中にすら、あの方が見ていたのは、最終的に倒すべき敵、それに基づく完成され確実に進行していくシナリオ、そしてその中の、一登場人物としての、端役としての自分だったのだ。

 虚しく無いと言えば嘘になる。
 結局のところ、自分だけが勝手に舞い上がってのぼせていただけなのだと、思い知らされたときには、全てを失った気になった。

 けれど長い時間をかけて考えても、あの皇子を恨む気にはならなかった。
 裏切られたとも思ってもいない。まして憎んだりしたことは一度も無い。
 それだけは誓って言える。
 結局のところ、あの皇子は最初から最後まで、あらゆる意味において自分には手に届かない存在以外の何物でもなかったのだ。
 綿密に仕組まれたシナリオの中に、部品として組み込まれただけなのだとしても。
 あのときの愉悦に染まった表情すらも、あの方の創った演出のひとつだったのだとしても。
 あの方の中には自分という存在が欠片も無かったのだとしても。
 どこの誰が、本当の意味において、あの方の傍に居て、あの方を支え、真の意味において、そのいくばくかを占領していたのだとしても。
 それを為し得た「誰か」と比べてすら、自分には、今なお、決して負けないものがあると信じている。
 それはこんなふうに動かない時間の中に閉じ込められ、置き去りにされた今も、自分の本質は、何一つとして変わらなかったことが何よりの証明だ。

 流されたのではない。
 操られたのではない。
 あの夜、皇子を抱きしめた行為そのものにではなく、心底、偽りなく、あの皇子の支えになりたいと。
 そう思えたことが真実であれば、それでいい。
 
 今も尚、たった一人で数多の敵と向かい合い、軍事大国を率いて戦い続けるあの皇子を支えたい。
 護って差し上げたい。
 二年を経た今も、それだけは少しも変わっていないのだ。



 



to be continude…。
 







2006 0601 RUI TSUKADA

歴史を人間の手に取り戻す。
オキューリアの手によって人間の破滅も存続も思いのままであった歴史に終止符を打つ。
それが正義であるか、悪であるかは問題ではない。
ただ、それを為す過程において、多くの人が悲しんだということが、ヴェインの人としての罪なのだと
思わずにはいられない。