『君主論(その4)』
ヴェイン様はたくさんの人と関わり、さまざまな形で影響を与えます。
関わった人々は、それぞれの視点で「ヴェイン・ソリドール」を評価するのです。
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君主論に曰く。
「総じて人間は、手にとって触れるよりも、目で見たことだけでものごとを判断してしまう。
なぜなら、見るのは誰にでもできるが、じかに触れるのは少数の人にしか許されないからだ。
ひとは皆、外見だけで君主を知り、評価し、ごく僅かな人しか、実際に君主と接触できない。」
君主とは、多くの人とたった一人で向き合う存在である。
そして、その多くの人間が、それぞれの視点で、たった一人の君主を評価するのである。
多くの人間は、君主と実際に、会ったことすらない。
だからこそ、君主に対する評価は、現実として見えている「実績」が対象となるのは当然のことであり、
君主はこのことについて、注意を払わねばならない。
上記の例でいくと、身近で接することのできる人たち(ゼクト、ベルガ、ギース、元老院)ならば、
ヴェイン様のひととなりや、事を成しえる際の「経過」にも評価は及ぶかもしれない。
だが、そういう特殊な立場にある人たちであっても、ヴェイン様の出す実績を前提に評価する。
ましてそれ以外の人、いわゆる大衆(政民、市民、外国人A)に至っては、
最初から、「結果」しか評価する判断材料がないのである。
そこには、人間・君主の内面や、未知の可能性など入り込む余地などない。
最初に「結果・実績」があって、それをもって大衆は、勝手に君主の実体を想像するのである。
そこに君主の厳しさがある。
では、周囲の人間や大衆に、「優れた君主」であると評価されるには実際問題、
どのようなことに留意するべきか。
君主論に曰く。
「名実ともに兼ね備えた君主とならんとするとき、「よい気質」を何から何まで備えている必要はない。
よい気質は備えているように見せるようにすればよいのであり、
りっぱな気質を備えていて、それを後生大事に守っていくという姿勢は極めて有害である。」
これはかなり現実的な警告である。
古来、「名君」たるには、立派な人格者であることをもって賞賛されがちであった。
だが、現代政治学の基本たるマキャベリの「君主論」においては、そこに鋭くメスを入れ、
「よい気質」を守り続けるのは、「有害」とまで言い切っている。
では何故、君主が「よい気質」を備え続けることが有害なのであろうか?
答えは簡単である。
君主がいくら、慈悲深く、信義に厚く、人情味があり、裏表がなく、敬虔な善人であったとしても、
周囲の人間や外部の人間までが、そうであるという保証はどこにもないからである。
君主とは、非常に多くの人間と関わらなければならない特殊な存在である。
そしてその「大多数」全てが誠実な人間であることこそ非現実的であり、的外れな期待である。
こっちがいくら善人で、相手を信用し、誠意を持って相対しても、
相手がハナから騙す気で近づき、卑怯な反則ワザを次々と繰り出してきたら、
勝てるわけがないのである。敗北が決定的となった段階で、そうだと気づいてももう遅い。
そして利用価値の高い君主を「ハナから騙す気で近づく人間」というものは、
案外多いものであり、しかも彼らは力も金も頭脳もある強く恐ろしい敵であり、
そんな彼らから国を守れないようでは、いくら「よい気質」を備えた善人であろうが
「最低の君主」に成り下がるのである。
何から何まで己の信義に従っているようでは、必ずそれに付け込む
人間が出てくるものであり、君主である以上、相手がどれほど狡かろうが、強かろうが、
負けるわけにはいかないのである。
必要とあらば信義、人間味といった「善」の仮面をかなぐりすてて、あえて「悪」を選択する。
この決断ができるかどうかで君主の器は決まる。
いかに聖人君子であろうと、国を弱体化させたり、あるいは破滅されてしまったりしては意味が無い。
ヴェイン・ソリドールという人は、上記評価が様々であるように、実に多面的な人物である。
軍総司令官として大艦隊を指揮し、数々の戦に勝利し、国内外に「戦争の天才」
として通じ、帝国そのものの強さの象徴にまでなっている。
皇帝に代わって実質的に帝国の内政実務を取り仕切る。
一方においては、巧みな話術と真摯な態度で「よい気質」を備えていると「見せることのできる」
外交手腕をも発揮する。
自国内では政敵の策略にも冷静に対応し、迅速に的確に、事前に処置判断できる
「ソリドールの剣」としての顔をもつ。
そしてそれら多面的能力を優れた適用術によって臨機応変に運用し得る
すばらしいバランス感覚を併せ持つ。
力強さと知恵の見事な両立が彼の実力だが、彼はそれだけではない。それを印象的により強く見せる手腕。
それら全てが彼に名君としてのカリスマ性を与えているのである。